創部1897年 / 体育各部1902年公認
今年も早稲田柔道の伝統を受けつぎ、勝利を目ざして頑張ります。また、経験を問わず部員を募集中です。選手だけでなく、マネージャー、トレーナーも随時募集しております。
早稲田大学の前身である東京専門学校が産声を上げた1882(明治15)年は、柔道の生みの親である嘉納治五郎がその総本山である「講道館」を設立した年でもある。早大からは1884(明治17)年に入門した多羅尾浩三郎がおり、嘉納師範の20番目の門弟となった。東京専門学校は開校当初から体育理念により撃剣道場が設置され、寄宿舎の学生を中心として柔道・剣道の修行が行われていたという。1896(明治34)年には道場「七徳館」が完成。東京専門学校としては1897(明治30)年、早大としては1902(明治35)年が柔道部の創部の年とされるが、「早稲田柔道」の発端はそれよりも早くに見ることができる。
現在、国際柔道連盟(IJF)には約200の国・地域が加盟しているが、世界的な普及の先駆者もまた、早稲田から海外に多数雄飛していった。「グレイシー柔術の祖」とされる前田光世や、約10年間ヨーロッパ各国に柔道を紹介した石黒敬七、「フランス柔道の父」と呼ばれる川石酒造之助らが挙げられる。
1902(明治35)年と1903(明治36)年の2回、技術錬磨および親睦のために慶應義塾大学との対抗試合が行われ、これが早慶戦の先駆けとされる。現在まで続く「早慶対抗柔道戦」に発展したのは1940(昭和15)年。当時の人気はすさまじく、講道館で行われた第1回は大観衆が押し寄せて椅子が破損するなどしたという逸話がある。
「文武両道」の精神が早稲田柔道の根幹を成している。「柔よく剛を制する」柔道の真髄を究めるため、練習に励んでいる。
※2022年度発行『早稲田スポーツ125周年記念誌』より
秋本 崇之(スポーツ科学学術院・教授)
男子部:呉 世鎭
女子部:西田 清二
【男子部】飯田 健介(社会科学部)
【女子部】出口 華(スポーツ科学部)
【男子部】工藤 大輝(法学部)
【女子部】柳橋 りな(スポーツ科学部)
50名 (2023年12月現在)
早稲田大学早稲田キャンパス17号館1階柔道場
5月 | 東京学生柔道優勝大会 |
6月 | 全日本柔道優勝大会 |
9月 | 東京学生柔道体重別選手権大会 |
10月 | 全日本学生柔道体重別選手権大会 全日本学生柔道体重別団体優勝大会 |
11月 | 早慶対抗柔道戦 |
月曜日~金曜日:16時30分~
土曜日:9時~
(約2時間~2時間半)
入部金-
年間部費35,000-
(遠征費は別途徴収)
東伏見駅(男子寮)
柔道場横
前田光世
東京専門学校卒。1904(明治37)年に嘉納治五郎師範の命により講道館の富田常次郎と渡米して以来、ロシア、ヨーロッパ諸国、キューバ、メキシコと南米22カ国を回り柔道の紹介に努める。その後ブラジルに帰化した前田は、カーロス・グレイシーに柔道を指導し、それが後にグレイシー柔術となった。石黒敬七
1922(大正11)年卒。1924(大正13)年から約10年にわたりパリのソルボンヌ大学、警察官、軍人に教え、オペラ座で模範試合を披露、大統領にも柔道を指南した。戦後はNHKラジオ「とんち教室」に出演し一世を風靡した。川石酒造之助
1924年(大正13)卒。1930(昭和5)年に渡仏し、パリに道場を開設。同国柔道の基礎を築き、「フランス柔道の父」と呼ばれている。笠原巌夫(佐々木巌夫)
1931(昭和6)年卒。在学中から頭角を表し、“昭和初期柔道十傑”と評される。1929(昭和4)年に早大柔道部がアメリカに遠征した際には、笠原は至るところで豪傑な強さを発揮したとされる。1930(昭和
5)年には第1回全日本柔道選士権では選士権の栄冠を獲得した。大澤慶己
1946(昭和21)年卒。鋭い足払いを持ち味とした「柔よく剛を制す」柔道を邁進。全日本選手権大会や全日本東西対抗大会などで活躍した。早大柔道部の師範や教授なども歴任。講道館で最高段位である十段の所有者。※2022年11月時点
03-3207-9190