※2024/2/26現在の情報。空欄は開催日・会場未定。「-」は開催予定無し
明治36年(1903)11月5日、早稲田大学野球部から、先輩格の慶應義塾大学野球部に挑戦状を送りました。挑戦状の筆をとったのは、当時の早稲田大学第2代主将、橋戸 信であったと言われています。
11月21日午後1時30分、快晴のなか、三田綱町の慶応義塾運動場にて第1回早慶戦が行われました。結果は11対9で慶應義塾の勝利。早稲田は善戦しました。これがのちに伝統を誇る「早慶戦」の始まりです。スポーツやその他分野での「早慶戦」は、ここから起こりました。
明治38年(1905)、早稲田大学野球部は米国遠征により野球の母国で最新技術を学び、帰国後、早慶定期戦を行います。しかし、明治39年(1906)、両校応援団が極度に熱狂したため、慶應義塾鎌田塾長が大隈重信伯、安部野球部長を訪問し、両校応援団の衝突および危険回避のため、早慶戦の中止を決めました。
その後、明治大学、法政大学、立教大学とも試合を行いますが、「早慶戦」だけは行われることはありませんでした。東京帝国大学(東京大学)も参加し、現在の東京六大学連盟が形成されていくことになります。
あれから19年。大正14年(1925)10月19日、 早稲田大学戸塚球場にて「早慶戦」が再開されます。安部野球部長は戸塚球場2塁上にて観衆に対し、早慶戦復活と野球の発展、両校の応援が天下の模範となることを訴え、観衆一同は感激し拍手で応え、立派な試合が行われました。結果は、11対0で早稲田の勝利。2回戦も勝ち、大正14年(1925)秋季リーグ戦に優勝しました。
現在では、野球部、庭球部、漕艇部(ボート)、剣道部、ラグビー蹴球部、ア式蹴球部(サッカー)、バスケットボール部など、早稲田大学体育各部44部のうち37部が宿命のライバル・慶応義塾大学と「早慶戦」を繰り広げています。
なお、早稲田大学競技スポーツセンターと慶応義塾大学体育会は相互リンクしています。慶応義塾大学体育会の「早慶戦」サイトには、早稲田大学第2代主将・橋戸が書いたとされる「早慶戦開始の挑戦状(慶應義塾福澤研究センター蔵)」が掲載されています。
「最後の早慶戦」という言葉を聞いたことはありますか。「最後の早慶戦」とは、1943年(昭和18)10月16日、早稲田大学戸塚球場で実施された「野球の早慶戦」のことです。詳しくは、こちらをご覧ください。