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【わせとしょ探検隊!】第12回 早稲田大学学生服にこめられた歴史

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アイキャッチ画像は次より引用. “冬服” by Masami.H.M. Licensed under CC BY 3.0 via ウィキメディア・コモンズ

いよいよ新年度になりましたね!早稲田に合格されたみなさん、おめでとうございます!早稲田大学図書館ボランティアスタッフLIVSの中村です。これからの4年間、思う存分学生生活を謳歌してくださいね!

ところで、高校と大学は何が違うのでしょう?大学は単に受動的に学習をするのではなく、能動的に学問を修める場だということが最も大きな違いではないでしょうか。もちろん、そういった求められる学びへの姿勢が一番大きく異なる点ではありますが、大学では学生の見た目も大きく変わります…そう、制服が無いのです!

いやいや、高校にも制服が無い学校はあるよ、制服を指定している大学もあるんじゃないの?と思ったあなた、確かにその通りです。

ですが、高校に比べて制服を指定している大学は圧倒的に少ないのが事実ではないでしょうか。早稲田大学にも制服の指定はありません。しかし、実は今からおよそ100年前には早稲田大学にも制服がありました。今回は、今は無き早稲田大学の制服について探検してみましょう!

WINEで早稲田の制服について探してみる

「わせとしょ探検隊」シリーズをお読みの方にはおなじみ、早稲田大学図書館蔵書検索WINEを使い、キーワード検索で「早稲田 制服」と探してみます。

すると、検索結果は21件。しかし、内容を見ていくと無関係な資料が多そうです。

それでは、次に少し幅広く「制服」でキーワード検索するとどうでしょうか?すると、今度は1,200件を超える非常に多くの資料がヒットしてしまいました。

ひとまず、一番上位にヒットした『近代日本学校制服図録』という資料を見てみます。

この資料は件名に「制服(学生)–日本–歴史–1868-1945」とあります。

早稲田大学の前身の東京専門学校が設立されたのは明治時代なので、資料のタイトルにもあるように、近代(1868-1945)に時代が絞られているのは、効率が良さそうです!大学の制服にも触れられていれば、早稲田についても言及があるかもしれませんし、まずはこの資料を見てみることにします。

配架場所を見ると、この本は中央 B2研究書庫にあるというので、実際に行って探してみましょう。

地下書庫を使ってみる

地下書庫に入るには荷物を1階のロッカーに預け、学生証を提示する必要があります。地下書庫は地下1階と2階が該当します。地下2階に行ってみると…、わぁ、とても広い!

入口には赤と緑の蛍光灯が交差しているので、フロアマップとこの光を目印にお目当ての本のある書架を探せます。請求記号は「383 000534」なので該当する番号を入口付近の地図と書架の掲示を見つつ探します。

あ、この書架のようですね。さすが地下書庫、天井まで届きそうな高さまで本が収めてあります。どれどれ…、ありました!

ところで請求記号の383は、図書館が使用している日本十進分類で「衣食住の習俗」を意味しています。近くには似たようなテーマの本が集まっているはずなので、上を見上げると、何やら関係ありそうなもう一つの本が見つかりました。

学校制服の文化史 : 日本近代における女子生徒服装の変遷』という題名です。女子生徒ということで、女子の学校制服が中心のようですが、一応借りておきましょう。このように検索システム上ではヒットする本が多すぎて、お目当ての内容のものをひとつひとつ探すことが難しい時も、ひとつ目当ての本を見つけて図書館に来れば、同じ分類の欄で芋づる式に関係しそうな本を見つけられるのが嬉しいですね。

本の内容を確認してみる

早速地下書庫にある閲覧席で『近代日本学校制服図録』の内容を確認してみましょう。どうやらこの本は、男子・女子・子供服に制服を分け、それぞれの歴史を追っているようです。男子の制服では、早稲田大学の制服についてもページが割かれて写真付きで取り上げられていました!これはラッキーです!

著者の難波知子によれば、男子制服の起源は帝国大学(現東京大学)と学習院に求められるそうです。これらの大学で制服が制定されたのは帝国大学で明治19(1886)年、学習院で明治12(1879)年です。官費支給の制服は海軍兵学校などでそれよりも前から存在していたそうですが、自分たちのお金で買わなければならない制服の存在は前述の2校から始まったのです。帝国大学では陸軍型(ボタンで前を合わせる)、学習院では海軍型(ホックで留める)が採用されました。意外にも、詰襟学生服で一般的なボタン留めよりもホック型が最初に採用されたのですね。(『近代日本学校制服図録』、難波知子著、創元社、2016、p.16)

「陸軍型」制服のイメージ((C)いらすとや)

早稲田大学では、陸軍型の詰襟学生服が採用されました。もともと早稲田大学の前身である東京専門学校では制服はありませんでしたが、正式に大学へと改称する時期に、制服導入に踏み切ったのだそうです。1920年には大学として正式に認可されましたが、それに先立つ明治33(1900)年には制服の制定がなされました。(『近代日本学校制服図録』、p.53)

帝国大学から導入が始まり、師範学校、旧制中学校・高等学校など、どんどん制服導入がなされていた流れからは、早稲田での制服導入は遅れていたのですね。東京専門学校は私学だったため、必要性が感じられていなかったのかもしれません。

早稲田で導入された制服は、官立の学校と少々異なるもので、「背広洋服」に徽章の入ったボタンを付けた制服と、イギリスケンブリッジ大学の帽子に模した制帽が制定されました。(『近代日本学校制服図録』、p.53)

この時の制帽は、角帽ですが庇が無く、黒い絹糸の房がつけられていたものでした。アカデミックドレスと一緒に被る帽子のように見えます。その後、庇のついた角帽をかぶり、詰襟の学生服を着るという形に変わっていきました。この点では、帝国大学等の様式に早稲田が合わせていった歴史がうかがえます。この制帽と同じ形の式帽は、今でも早稲田大学歴史館で見ることができますよ!

しかし、現代で、ケンブリッジ大学の帽子を付けた早大生が高田馬場駅で集まっている姿…、う~ん、ちょっと想像できないですね。

制服を着た当時の早大生の写真は、例えば早稲田ウィークリーのコラム「早稲田に歴史あり」で取り上げられている記事などを見ていくと、いくつか雰囲気は感じることができるのではないでしょうか。ご関心があればぜひご覧ください!

新聞記事で早稲田の制服にまつわるエピソードを調べてみる

さて、早稲田の制服導入状況は分かってきましたが、制服があった当時の学生の生活はどうだったのでしょうか?図書館が契約している新聞記事データベース『朝日新聞:聞蔵IIビジュアル』で調べてみました。

先ほどの調査で、制服制定は1900年頃と分かったので、「早稲田 制服」のキーワードで戦前からの新聞を検索すると、ある戦争中の悲しいエピソードが見つかりました。「古服に包む決意 大学新入生春の門出」という記事に書かれています。

(前略)刻下繊維資源確保の急務から、文部省では再三全國の各直轄、官立私立學校に対して、各地方長官を通じ新調見合せの通牒を発してをり(中略)制服新調の動向はどうか、都下學校指定洋服商の報告をきいて見る

早稲田大學指定洋服組合=早稲田では毎春五千名からの新入生が入つて来ますが、このうちの新調を五十店で引受けてゐます 昨年より生地の入手難から一店でどうしても三十着前後となるわけで、結局學校からの制服購入券の一割をさばき、あとは大部分が古服の修繕で間に合せてゐます
(「古服に包む決意 大学新入生春の門出」『朝日新聞』、東京、夕刊、1943年3月31日(水)、2頁)

時は太平洋戦争中、戦局が悪化していくにつれ、資源の節約が求められ制服の新調見合せの通牒が出されていたとのことです。記事内では、早稲田大学指定洋服組合が新入生の制服を必要な分用意できない現状を語っています。新入生といえば新しく始まる学生生活に胸をときめかせる時期なのに、努力して入った大学の制服を着られないのはなんとも寂しいものだったでしょう。

早稲田の女子学生は何を着ていたのか?

ここまで男子学生を中心に早稲田の制服を追ってきましたが、女子学生はどのような服装で通っていたのでしょうか?そもそも、早稲田はバンカラのイメージがありますが、女子学生はどのくらいいたのでしょう?

先ほどまでの資料を離れ、別の資料で早稲田の歴史を探ってみました。早稲田大学の歴史を東京専門学校時代から追うことのできる資料の一つに『早稲田大学百年史』という校史があります。1978年から97年にかけて刊行され、全8冊に及ぶ長編資料です。

しかし、この資料すべてに目を通して、目当ての情報を探すのはなかなか大変なので、便利なサービスを利用したいと思います。早稲田大学には大学史資料センターという早稲田大学の歴史や関係する史料を専門に扱う機関があります。この公式HPに、前述の『早稲田大学百年史』のWiki版があるので、こちらを使ってみましょう。キーワードで『百年史』の内容が検索でき、テキストデータで目当ての情報を読めるので、かなり省力化が図れます。「女子学生 制服」で検索すると「第三巻 第七編 戦争と学苑 第七章女子学生への門戸開放」に、女子学生受け入れの経緯と制服について詳しく触れられていることが分かります。

『百年史』によれば、早稲田大学の創設者大隈重信は、女子の高等教育に理解があった人でした。彼は早稲田大学創設者であったと同時に日本女子大学校創立委員長だったのです。このことは、2015年から2016年に放送されたNHK連続テレビ小説「あさが来た」でも取り上げられていたので、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか?

『百年史』によると、早稲田大学では、女子学生の学部入学こそは昭和14(1939)年に許可されましたが、講義の聴講や付属工手学校への入学は大正10年代から実施されていて、女子にも早くから門戸が開かれていました。しかし、

第一期の女子学生入学者は、文学部国文学専攻に織本良子と中沢(旧姓足助)政子、英文学専攻に岡野(旧姓小林)恵子、法学部に今北(旧姓古田)静子の計四名であった。
(『早稲田大学百年史』第三巻 第七編戦争と学苑 第七章女子学生への門戸開放 二 昭和十四年四月、p.804)

とあるように、昭和14年の女子学生入学者数はたったの4名でした。入学後の彼女らの服装について、『百年史』では当時の『早稲田大学新聞』『早稲田学報』を引用して、次のように紹介しています。

十四年第一期生の入学から二ヵ月後、「流石地味な女子学生」と評価される一方で、「断然華やかなのは何と言つても女子学生の自由な服装であるが、これも将来取上げられる問題」(『早稲田大学新聞』昭和十四年六月二十八日号)であるとし、自由な服装から制服への移行を示唆している。第一期生織本はこの経緯を、(中略) 「私達はある日揃って目黒のドレメに行き、杉野女史デザインの制服の仮縫をした」(『早稲田学報』第八六二号 四一―四二頁)と想起している。
(同上、p.807-808)

入学後、彼女たちの服装は自由だったようで、評価も地味、派手などと様々でした。その後女子学生にも制服の導入が検討され、実際に仮縫いまでされましたが、第二次世界大戦中だったためどこまで徹底されたかは分かっていないようです。結局、戦後になり女子学生の制服は立ち消えてしまいました

ところで、先ほど紹介した早稲田ウィークリーの「早稲田に歴史あり」コラムでは、1944年頃の早稲田の女子学生を写した写真が紹介されています。ご関心があれば次のリンクからご覧ください!

「早稲田の女子学生」(早稲田ウィークリー)

制服のその後

そのほか、早稲田大学の移り変わりを写真と共に紹介している『都の西北 : 建學百年』という昭和57年(1982年)の資料では、

(前略)角帽に、黒の詰襟金ボタンの学生服、そして革靴といういでたちは、(中略)昭和四一年の卒業アルバムでの集団写真では七割見当を占めていた
(『都の西北:建學百年』、早稲田大学大学史編集所編、早稲田大学、1982、p.83)

とあります。戦後20年間程は学生服の着用者が多かったようです。『早稲田大学百年史』にも戦後の学生の服装について言及があり、当時は「学生服がまことに重宝な衣服である」としながらも、スポーツシャツやスラックス、ブレザー、セーター等が着こなされるようになっていたようです。

卒業アルバムのスナップ写真を見ると、四十年頃を境として、ブレザー、スラックス姿の学生が多く見られるようになった。勿論、学生服姿の者が多いのであるが、服装の変化が確実に進行していることが分る。学生服は、礼服としても、また普段着としても用いることができるまことに重宝な衣服であるが、五十年頃になると、そのように使用しながらも同時にスポーツシャツやスラックス、ブレザー、セーターなどを組み合せて着こなすようになった。(中略)大学紛争は一つには既成のモラルの強制や管理体制からの解放を標榜していたが、学生達は紛争を経る中で学生服を管理の象徴と見たので、それを脱ぐことが自分達の反強制、反管理体制の意志を表示することでもあった。
(『早稲田大学百年史』「第五巻 第十一編第十三章 九持ち物と娯楽」、p.784)

昭和40年代からわずか10年程で、すっかり学生の外見が変わったことに驚きました。その原因には、学生紛争が関わっていることも示唆されていて、時代を感じさせるエピソードですね。

現在の早稲田で学生服はほとんど見ることが無くなってしまいましたが、応援団を始めとした一部の団体の学生が着用している姿をキャンパス内でも見ることが出来ます。

もし早稲田の女子学生に制服があったら?

それにしても、女子学生の制服が実現しなかったのは残念です。ちょっと当時の時代を考証しながら、想像してみると面白いかもしれません。

『近代日本学校制服図録』と一緒に借りた『学校制服の文化史』には、女子の制服について詳しく記述がなされています。それによると、早稲田に女子学生が本格的に入学した昭和30年代にはすでに制服の洋装化が定着していました。

一九〇〇年代に袴が女子生徒を表す服装として定着し、そこの学校の徽章が付くことによって女子学校制服が成立した。一九二〇年代に袴から洋服へと転換すると、今までの記号体系が一旦解体され、再びある特定のデザインの洋服が女子生徒を表す服装として定着していく。
(『学校制服の文化史』、p.282)

第一次世界大戦中のヨーロッパ女性が男性に代わり、社会で活躍し始めたことをきっかけに、日本でも女性の服装を動きやすいものにしようという気運が生まれました。(同上、p.199-200)その中、洋装の普及に一役買う役割を与えられたのが女学校でした。1910年代は洋服と和服のどちらを採用すれば学生らしく、女らしく見えるか、経済的か、活動に適しているのか等さまざまな議論がなされましたが、1920年代になると次々に洋服に制服を切り替える女学校が増えました。

一九二〇年代初頭には各女学校でそれぞれ異なったデザインの洋服が制定されたが、一九三〇年代になるとセーラー服やジャンパースカートの形式に集中してくる。
(『学校制服の文化史』、p.282)

女学校は大学入学前の教育機関なので、生徒の管理が制服制定の目的の一つにありました。『百年史』では、当時の早稲田の女子学生の華美な服装を咎める、『早稲田大学新聞』上の記述を紹介しています。

十七年春には、女子学生は聴講生を含めて二十五名を数えるが、この年、「服装の華美を中心に純朴早稲田の醇風の汚されるのを慨嘆、切々たる」投書が舞い込んでいる。それは「ハリウッドの大部屋の女優の扮装をそのままに」仏文科に学ぶ一聴講生への非難であった(『早稲田大学新聞』昭和十七年六月二十四日号)。これに対し、中島太郎学生課長は制服着用こそが解決への鍵であると述べている。
(『早稲田大学百年史』、p.808)

大学といえども女学校と同様、学生の管理を行いたいという意識が当時はあったのでしょうか?

もし早稲田に制服が導入されていたならば、ワンピースやセーラー服になっていたかもしれません。女学校との差別化を図るならば、早稲田の角帽が男子学生にみられたように、早稲田の徽章をどこかに付けさせたのではないでしょうか?例えば…

このような形の制服に、早稲田の徽章を胸につけたものですとか…(注:あくまでも筆者の勝手な想像です。)

おわりに

早稲田の制服の歴史はいかがでしたか?制服を調べただけでも、その制定が1900年(明治33年)と、百年以上前に行きつく点が早稲田の奥深さを物語っていますね。そんな早稲田が筆者は好きです。

今回の発掘成果

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* この記事の図書館書庫内の画像、資料の写真、データベースの画像は、早稲田大学図書館・各データベース提供元の許可を得て撮影・掲載したものです。図書館内あるいは 図書館資料・データベースを許可なく撮影すること、インターネット掲載は厳禁です。またこれらの画像の無断転用を禁止します。

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