Graduate School of Asia-Pacific Studies早稲田大学 大学院アジア太平洋研究科

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第3回アジア太平洋研究センター(WIAPS)研究会

開催日時

2011年5月23日(月)13:00 – 15:00

場所

早稲田大学19号館(西早稲田ビル)7階713会議室

参加資格

WIAPS専任教員・助手, WIAPS受入の交換研究員・訪問学者・外国人研究員, GSAPS修士課程・博士後期課程在学生

報告1

報告者

神田 豊隆 氏(早大アジア太平洋研究センター助手)

報告テーマ

“1960年代における冷戦構造の変容と日本外交指導者の秩序観:対中外交の分析を軸として”

要旨

1960年代は、冷戦構造の変容が進んだ時代である。米ソはデタントの流れを軌道に乗せ、これに反発した中国は両超大国からの離反を進めていった。孤立に向かう中国の動向は、アジアにおける紛争の焦点ともなった。
本報告は、こうした60年代における冷戦の変容に対し、日本外交がどのような秩序観をもって対応したのかという主題を、その対中外交を軸に検討するものである。結論として本報告は、日本の外交指導者の中に二つの秩序観の系譜があったことを主張する。すなわち、米ソのデタントと一体的なアジア秩序を模索した系譜と、米ソ協調の進展よりも中国の秩序への組み込みに主眼を置く系譜である。

報告2

報告者

小野 真由美 氏(早大アジア太平洋研究センター助手)

報告テーマ

”日本人高齢者の国際退職移住に関する文化人類学的研究”

要旨

グローバル化の進展により、現代における人々の生活の場はトランスナショナルに拡大している。人の国際移動は多様化し、個人が自発的にある国や地域を選択し海外移住や長期滞在する状況が世界各地で見られるようになった。本報告では、少子高齢化の進展を背景に進展する日本人高齢者の国際退職移住を考察する。特に、観光政策として就労を制限された外国人の長期滞在を受け入れるマレーシアへの日本人高齢者の国際移動の発生における観光産業の介在と余暇活動の消費的側面の関連を指摘し、ライフスタイルとして商品化され消費の対象とされる国際移動の諸相を示す。また、国際退職移住に伴うケアのトランスナショナル化への展開を鑑み、今後の研究の展望を述べる。

報告3

報告者

平川 幸子 氏(早大アジア太平洋研究科助教)

報告テーマ

”東南アジアの戦後:バンドン・非同盟・ASEANの源流と分岐点”

要旨

本報告は、「アジア統合史の構築」という視座を持ちつつ、東南アジアの戦後20年間に焦点を当てて論じる。アジアでは1965年頃から現在につながる経済中心の実質的な地域協力関係が始まったと見られるが、本報告ではそれ以前の1945年から1965年までの約20年間に焦点を当てる。植民地経験の長かった東南アジア諸国にとってその期間は、独立や建国、脱植民地化という国家的課題とともに、新たな地域秩序を模索する混沌のプロセスでもあった。旧宗主国や 日本という外部勢力が去った後に、新たに流入しつつあった米ソ両大国による新たな「冷戦」の論理に抵抗する、アジアの新興独立国からの連帯的主張を模索していたのである。

インド、インドネシア、ビルマなどのリーダーシップで、アジア関係会議(1947)、アジア独立諸国会議(1949)、コロンボ会議 (1954)、ボゴール会議(1954)などの地域的国際会議が次々と開催された。また、ビルマのイニシアチブにより社会主義者の間でも大規模な「アジア 社会党会議」(1953)が組織された。どのような政治的立場にも「アジア」というつながりの発想があったのである。これらの潮流は、やがて1955年の 第一回バンドン会議(アジア・アフリカ会議)に結実し、政治体制の異なる29カ国が参集した。

バンドン会議は、1954年に米国主導で結成されたSEATOに対抗する、新興独立国地域からの政治的申し立てだといえる。たとえば、米国が中国の存在を認めず封じ込め政策を取っている時、バンドン会議は中国との「平和共存」の精神で開催された。

しかし、間もなく、アジア諸国の進む道は分岐していく。建国時の理想を通し独自の路線を模索する非同盟諸国と、マレーシア・フィリピン・タイなど 反共・親欧米諸国との間での差異が明らかになる。とりわけ、1957年に遅ればせながら独立を果たしたマラヤ連邦(マレーシア)の動きが、東南アジアにおける地域主義の流れを転換した。当時の地域連帯の象徴であるバンドン精神に則り「非同盟中立」を標榜していながら、現実には旧宗主国である英国と安全保障同盟を結び、「中立」ではない立場から独自のアジアの地域秩序を目指した。初代首相ラーマンが取ったのは、政治的立場は問わないまま、経済社会領域を中心として、善隣関係の連結によって地域枠組みを拡大するという手法であった。それは、激しい闘いを通して獲得した独立経験に基づく熱い政治的思想や主義によって連帯を求めるインドネシアのスカルノらの手法とは違い、より客観的で実務的な判断に基づいた地域主義であった。ASA(1961)、マフィリンド (1963)、そしてASEAN〈1967〉とマレーシア主導による地域組織が築かれていく。その過程では、インドネシア・マレーシア対立、そして 9.30事件(1965)によりインドネシアの国内体制が変更されたことが決定的要因となって、現在に至る東南アジアの地域主義の流れが収斂されていったと考えられる。

本報告は以上のようなトピックを取り上げつつ、混沌とした時代に生まれた複数の地域主義的発想の源流と分岐点を整理したい。

Dates
  • 0523

    MON
    2011

Place

早稲田大学19号館(西早稲田ビル)7階713会議室

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