50年変わらぬ友情 国際部三期生のホームカミング

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ビル・ワタナベさん(左)とユージーン・ツジさん(右)。6号館内のCスペースにて。

ビルさんとユージーンさんが、搬入されたばかりの椅子にゆっくりと腰掛けます。6号館1階に新設されたC Space──ここは1967年頃、国際部の「コモンルーム」でした。「こんなにきれいになって……。当時は古臭い部屋で、昔風の木のテーブルがありましたね」とビルさん。「よくトランプをして遊んでいました」

ビル・ワタナベさんはカリフォルニア州立大学ノースリッジ校から、ユージーン・ツジさんは同大学チコ校から早稲田大学に留学した、国際部の三期生です。国際部は1960年に設置された国際交流プログラムです。主に五大湖私立大学連盟(Great Lakes Colleges Association)とカリフォルニア州立大学連盟(California State Colleges、当時)からアメリカ人留学生を受け入れ、日本語学習プログラムと、1年を通して日本の文化に触れるイベントを提供していました。このたびビルさんとユージーンさんは、その人生を変えた留学経験の50周年を記念し、来校しました。

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ユージーンさんとビルさん、お二人の奥様、そして当時国際部に勤めていたスタッフの方々

ビルさんとユージーンさんはアメリカで生まれ育った日系アメリカ人ですが、その見た目と実際に話せる日本語にギャップがあったため、留学中は苦労したといいます。ビルさんは第二次世界大戦中にマンザナー強制収容所で生まれ、自分のルーツを知るため早稲田に留学しました。福島に住む親戚に会いに行くこと、また英語が話せない両親と日本語で会話をすることも留学目的のひとつでした。「吉永小百合さんが在学していると聞き、ひょっとしたらいないかな、とときどきあたりを見回したものです」。一方カリフォルニア州ユバ市出身のユージーンさんは、来日当初まったく日本語が話せなかったそうです。「ビルが教えてくれた日本語でいちばん大事な言葉のひとつは『定食』でした」

日本での暮らし

二人が早稲田に来た当時、世界情勢は荒れていました。キング牧師の暗殺につづき大統領候補ロバートF.ケネディー氏も暗殺されました。学生反乱は拡大・過激化の一途を辿っていました。ベトナム戦争がきっかけとなった学生反乱は「スチューデントパワー」と呼ばれ、世界的な現象となりました。

国際部の学生はホームステイが原則で、高田馬場駅や都電早稲田駅から大学へ通学していました。線路沿いにはさまざまな屋台が並んでおり、とても安くて学生にお得だったそうです。「当時1ドルは360円だったので、焼きそばは50円くらいでした」とビルさん。「初めて食べた餃子もここでした」

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修学旅行で訪れた奈良にて。クラスメイトが鹿と遊んでいる様子(写真:ビル・ワタナベ)

日本の社会・産業・文化を理解するために、国際部の学生は、大相撲、歌舞伎、早慶野球戦などを見学し、また京都や奈良などで伝統的な日本を体感する修学旅行も開催されていました。長期休暇を利用して国内旅行や東アジアや東南アジアを訪問する学生もいました。さまざまな旅行の思い出のなかで、ビルさんとユージーンさんにとってもっとも印象深かったのは、10月に富士山を登山したことだそうです。

「富士山登山を実現するため、僕とユージーン、もう一人の友人メアリーと、富士吉田まで電車で行きました。けれども僕たちは薄着でまったく山へ登る準備が出来ておらず、富士山の5合目まで行くバスが8月で止まっていることをその場で知りました」

幸運なことに、その付近にあるカトリック教会の神父が泊めてくれることになりました。富士山登山のことを告げると、登山靴などのふさわしい装備を貸してくれ、しかも5合目まで車で送ってくれたそうです。全員で頂上まで登りましたが、とても寒くて風が強かったため滞在時間は短めでした。登頂には長くかかったものの、下りはとても速くて楽しかった、とユージーンさん。「これはもう禁止になっているはずですが、僕たちは砂利を滑っておりました。神父さんに貸して頂いた靴はぼろぼろになってしまいましたけどね。でも数年前に、ビルと僕はこの思い出を記念して、この教会に寄付しました」

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神父のおかげで無事富士山登山に成功(写真:ビル・ワタナベ)

早稲田への留学から50年を経て

ビルさんとユージーンさんにとって、日本語を学び、文化に触れる日々を過ごした(富士山登山のような冒険も含め)早稲田大学での経験は大切な思い出となっただけではなく、その後の進路にも影響を与えました。ビルさんはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にて社会福祉の修士課程を修了後、1980年からリトル東京サービスセンターの事務局長に就任し、日本語が話せたことや日本人への理解があったことから、リトル東京周辺に暮らす日系アメリカ人のための多彩な福祉プログラムを開発しました。ロサンゼルスの日系コミュニティーのみならず、アジア系マイノリティに支援を拡大し、30年以上も地域社会に大いに貢献しました。一方ユージーンさんは米軍人としてベトナムに行き、その後20年間、日本で過ごしました。上智大学の大学院へ通い、家庭を持ちながら仕事で世界各国を訪れました。今は奥さまと一緒にベトナムに住んでいます。

当時45人程度しか学生がいなかった国際部は時を経て、600人近く在学する国際教養学部へと進化し、いまでは5,000人以上の外国人学生がビルさんやユージーンさんの足跡を追っています。お二人が早稲田でともに過ごしたのはわずか1年という短い期間でしたが、50年以上経った今も固い絆で結ばれています。人生の中で最も充実した時間のひとつだった、とビルさん。ユージーンさんは「僕はアジアで学ぶことに興味はなかったけれど、この経験が僕の人生をより豊かなものに変えました。とても恵まれていると思います」と語りました。

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