- Featured Article
SPECIAL INTERVIEW 花田勝彦さん
特集:Finding My Future
Wed 30 Jul 25
特集:Finding My Future
Wed 30 Jul 25
力を出せる方角へ、走りつづけたキャリア
花田 勝彦さん 早稲田大学競走部駅伝監督

“箱根で、3強に食い入る”。一つの目標を掲げ、2025年1月の箱根駅伝に臨んだ早稲田大学競走部。往路を3位で走り終えるも、國學院大学との争いに10秒の僅差で敗れ、総合4位の結果となった。2022年よりチームを指揮する花田勝彦監督は、走者たちの着実な成長を振り返る。
「青山学院、駒澤、國學院の3強と十分に戦える、確かな手応えをつかんだ一戦でした。そして今年度は私が着任して4年目。部員全てが指導した選手へと入れ替わります。駅伝で優勝争いに加われるとともに、ユニバーシアードや世界陸上でも活躍できる選手を育て上げるつもりです」

花田監督自身、早稲田大学競走部のOBでもある。総合優勝を果たした1993年の箱根駅伝では、“早大三羽ガラス”の一翼を担い、区間記録を更新。華々しい活躍のきっかけとなったのは、当時のコーチ・瀬古利彦氏の誘いだった。
「高校3年生の時、選手の勧誘で全国を回る瀬古さんに出会いました。経済的な事情で私立大学への進学は断念していたのですが、瀬古さんが自宅まで説得に訪れ、家族で決意を固めたんです。在学中は厳しい指導のもと、四六時中競走に打ち込む日々。卒業後は大学院に進んで指導者になるのが夢だったのですが、瀬古さんが監督を務めるエスビー食品に入りました」
実業団時代は2度のオリンピック出場を果たした花田監督だが、怪我の影響もあり、アテネ大会を目前にした2004年に現役を引退。次に選んだ道が、指導者だった。
「ある大学生から、『指導者になってほしい』というメールが届いたんです。送り主は、上武大学の駅伝部。私の引退と同年に創設されたため、箱根駅伝の出場経験などありません。新たな地平に魅力を感じた私は、指導者になることを決めました」

選手とともに全くのゼロからスタートした花田監督。徐々にチームの力を底上げし、5年目にして箱根駅伝への初出場に導いた。
「目指したのは、学生が『上武大学駅伝部出身』と胸を張って社会に出ること。競技だけでなく学問や地域貢献にも取り組むうちに、地域の方々の応援が増してきました。技能とともに磨いた人間性が結果につながったのだと感じます」 その後はGMOインターネットグループの監督を経て、早稲田大学へと戻った花田監督。培った指導経験は今日、母校のために注がれている。
「今いるチームのためにできることを自問し、キャリアを重ねてきました。現役の学生にも、ただ安定や収入を求めるのでなく、自分の力で何かを変えられる環境に身を置いてほしいと伝えています。学生は遠い未来のことを悩みがちですが、まずは4年間全力で何かに打ち込んでほしい。すると必ず、次の視界が開けてくるはずです」
PROFILE
1971年京都府生まれ。1994年早稲田大学人間科学部卒業。在学中は競走部に所属し、1993年に箱根駅伝4区区間賞を獲得。卒業後はエスビー食品株式会社に所属し、1996年のアトランタオリンピック(10000m)、1997年 のアテネ世界陸上マラソン、2000年のシドニーオリンピック(5000m・10000m)に出場。2004年に引退後、上武大学准教授および駅伝部監督、GMOインターネットグループ・アスリーツ監督を経て、2022年より早稲田大学競走部駅伝監督を務める。

織田幹雄記念陸上競技場@所沢キャンパス
今回撮影を行った織田幹雄記念陸上競技場は、日本陸上競技連盟第4種公認を有する全天候型の9コース・400mトラックで、本学競走部のホームグラウンドでもあります。本競技場の名称は、1928年にアムステルダム五輪において三段跳びで優勝し、日本人初の金メダリストとなり、本学のスポーツ功労者第一号でもある故織田幹雄氏の生誕100年を記念して2005年に命名され、次世代のアスリート育成の場として重要な役割を果たしています。