第二世紀へのメッセージ
早稲田大学にゆかりのある方に、早稲田の魅力や目指すべき姿を語っていただきます。
今回は『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞した作家の恩田陸さんにお話を伺いました。
音楽と読書が学生時代の全て
──学生時代はどのように過ごされていましたか。
学生時代に一番熱中したのは音楽でした。両親の影響で小さい頃から音楽に親しんでおり、特にピアノはずっと続けてきましたが、大学で入会したのはビッグバンドサークル「早稲田大学ハイソサエティ・オーケストラ」。憧れのアルトサックスに挑戦し、女性初の管楽器のメンバーとして卒業しました。当時ハイソサエティは「体育系文化部」といわれるほど練習が厳しく、私が初心者だったこともあって、ひたすら練習し、演奏活動に励みました。音楽にどっぷり浸かり、一方では趣味の読書のため図書館通い。好きなことをとことんやらせてくれる早稲田の「放し飼い」の雰囲気が好きでした。
1冊との出会いで開けた作家への道
就職して会社員となった頃、ちょうど日本はオフィスのOA化が始まったばかりでした。社内の記録が全てアナログからデジタルに移行するため、私は紙の書類の整理・分類・入力作業に終日追われ、夜遅くまでの残業や休日出勤もしていました。せっかく社会人になって、自分のお金で単行本を買えるのに、趣味の読書どころか本を買う時間もなくなってしまった。疲労から体調を崩したこともありました。そんな折に「第1回日本ファンタジーノベル大賞」の大賞受賞作『後宮小説』に出会いました。内容がすごく面白かったし、何より著者の酒見賢一さんが私と1歳しか違わず驚きました。「こんなに若くして小説を書いてもいいんだな」と。それがきっかけで、自分も書いてみようと思い立ったのです。
その後会社を辞め、半年で作品を書いて「第3回日本ファンタジーノベル大賞」に応募。最終候補まで残ったのがデビュー作『六番目の小夜子』です。
──デビュー後は再就職し、しばらくお仕事をしながら執筆されたそうですが、兼業作家のご経験は今にどのように役立っていますか。
当時は編集者にも「仕事をした方がいい」と勧められたし、私もプロになれるとは思っていなかったので、就職活動をして、昼間は会社勤め、夜帰宅してから執筆という兼業を7年続けました。仕事に追われる経験、上司や同僚との付き合いなど、会社で得るものはたくさんありました。何より、多くの人が通る会社員という道を経験できたことが作家としては良かったなと思います。
──直木賞、本屋大賞をダブル受賞した『蜜蜂と遠雷』は音楽を題材としています。この作品が生まれたきっかけをお聞かせください。
大好きな音楽、その中でも一番好きなピアノを題材にしようと考えたとき、演奏家のさまざまな思いが交錯し、ドラマ性のあるコンクールを思いついて『蜜蜂と遠雷』が生まれました。小説は直接音を聞かせることができないので、登場人物や、曲の長さに合わせて演奏シーンをあらゆる表現で描写するのに苦労しました。だからこそ、読者の皆さんが「読んでいると頭の中に音楽が流れてくる」と感想を寄せてくださるのがうれしいです。直接音を聞かせられなくても、読者の皆さんが思い思いに音楽を頭の中で再生してくださる。書き終えてみて、音楽と小説は相性が良かったんだなと気付きました。
失敗も人生の「肥やし」になる
──作家志望の若者や、早稲田大学の学生に向けてメッセージをお願いします。
私は新人賞の選考委員になることもありますが、選考の中で賞をゴールだと思ってしまっている人を見かけます。文学をよく勉強して、賞を取るために流行を押さえた作品を書くのもいいですが、賞はこれから作品を書き続けるためのスタート地点です。流行はすぐに変わるし、何より「これが売れている、はやっている」と時流を追うだけでは書き続けられない。自分の好きなものを書いてほしいです。
学生の皆さんには、さまざまな経験をして、失敗もどんどんしてください、と言いたい。失恋でもいいし、どんな挑戦だっていい。失敗はその後の人生で必ず役に立ちます。また負の感情を経験しておけば、人の考えていることが分かり、優しくなれるはずです。
──早稲田大学に期待することをお聞かせください。
今でも学生時代の友人と集まってお酒を飲めば、自然と当時の自分たちに戻ります。校歌にもあるように、早稲田大学にはいつでも帰れる場所として、「心のふるさと われらが母校」であり続けてほしいですね。
Profile おんだ・りく
1987年早稲田大学教育学部卒業。1992年『六番目の小夜子』で作家デビュー。
2005年『夜のピクニック』で第2回本屋大賞、2006年『ユージニア』で日本推理作家協会賞、2007年『中庭の出来事』で山本周五郎賞をそれぞれ受賞。2017年には『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞。