「戦争」と向き合う シンポ「学徒出陣を語り継ぐ」要録 【早稲田文化芸術週間】

10月21日、シンポジウム「学徒出陣を語り継ぐ──学生を二度と学苑から戦場に送らない」が、早稲田キャンパス小野記念講堂にて開催されました。このシンポジウムは、早稲田文化芸術週間の特別企画として、本学学生部文化推進部の共催にて行われたものです。当日は多くの学生および一般の方が参加し、アジア・太平洋戦争下で学徒出陣や勤労動員を体験された先輩方のお話に、熱心に耳を傾けていました。

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李成市理事(文学学術院教授)は挨拶で、次のように述べました。「今年は敗戦から70年目の年にあたります。アジア・太平洋地域に未曾有の被害を与え、多くの命が失われた戦争に、大学生や専門学校生が動員されました。また72年前の1943年10月21日は、神宮外苑競技場で学徒出陣壮行会が挙行された日です。いうまでもなく10月21日は、「学の独立」を掲げて、本学の前身・東京専門学校が創立された日でもあります。どうして創立61年目の創立記念日に、学生たちは出陣学徒壮行会に臨まねばならなかったのでしょうか。創立記念日は、戦争・平和と学問という問題に向き合う日でもあるのです。戦争が私たちの身近なものとして迫るこんにち、学徒出陣・勤労動員を経験された先輩、松本茂雄さん・八田源也さんに体験を語っていただき、対話を通じて戦争と平和についての記憶を継承する機会になればと考えます。学生の皆さんの積極的な応答を期待します。」

檜皮瑞樹・大学史資料センター助教による基調講演

gakuto1eyecatch松本さん・八田さんのお話を理解するための前提として、戦時下における学生と戦時体制に関する基礎的事項を整理し、あわせて大学史資料センターが所蔵する関連資料をご紹介します。

勤労動員は、1930年台後半から「志願」という形で次第に拡大しました。1941年には、早稲田大学報国隊が結成され、組織的な学徒勤労動員が実施されるようになります。

1944年2月の「決戦非常措置要綱」により、大学では授業がほとんど行われなくなり、学生たちの生活の場は、勤労動員先やその寄宿舎となります。大学キャンパスから学生の姿が消えたのです。

学徒勤労動員に関して学生自身の資料はあまり残されていません。大学史資料センター所蔵資料には、動員先の責任者と大学教員とのやりとりが記された資料があります。そこには、学生たちがあまり真面目に作業していない、不真面目だ、というクレームも見られ、学生たちの生の姿が浮かび上がってきます。また高等学院の学生からその友人への手紙には、愛知県半田の榎戸への学徒勤労動員の決定と、集合日として8月15日が記されています。この学生たちは、集合日当日に敗戦を知る、という経験をしたのです。

つぎに、学徒出陣についてお話しします。1943年9月、徴兵猶予の特典が廃止され、理科系を除き、在学生が戦地に送られることになりました。1943年12月には徴兵年齢が19歳に引き下げられ、翌年から徴兵の対象が拡大されます。

1943年9月の卒業証書授与式の写真があります。最初の学徒出陣の前月であり、卒業証書を授与された高等学院の学生のなかには、大学への進学と同時に出征した方も多くいました。

しかし、大学での学びの機会を奪われ、戦地に送られた学生は、狭い意味での出陣学徒に限られたものではありません。植民地出身学生、すなわち台湾や朝鮮半島出身の学生は1943年10月の「陸軍特別志願兵臨時採用制度」の対象となりました。ただ、志願というのは名目に過ぎず、実際には志願を拒否する学生に対する休学・退学の勧告が実施されるなど、実態としては強制的な戦争への動員でした。

また、繰り上げ卒業による戦争への動員も同様です。1941年に始まった繰上げ卒業は1945年まで継続します。繰上げ卒業生のなかには、大学への進学を諦め、召集対象となった学生も存在します。彼らは、一般的には出陣学徒とは見なされず、学徒出陣を語る際にも忘れられがちな存在であるといってよいでしょう。

敗戦後、戦地から戻ってきた学生の、率直な思いとはどのようなものだったのでしょうか。戦地から復員した学生の多くは復学しました。しかし経済的事情からだけでなく、「生き残ったこと」への呵責から復学を断念した学生も多かったのです。

私たちは、戦争体験を背負って戦後を生きた彼らにも思いを馳せる必要があるでしょう。

松本茂雄さん(1952年、政治経済学部卒)の講演

gakuto2eyecatch私が19歳の時、勤労動員で千葉県の印旛飛行場の建設に従事しました。早稲田大学自動車部から3名派遣されたうちの一人でした。入隊通知が届いたのは1945年2月25日、指定された期日に郡山駅へ集合せよ、という文面でした。届いた翌日東京へ戻り、学校の事務所に休学届を提出しました。させられた、というべきでしょうか。指定された日に郡山駅へ集合しましたが、列車がどこに行くのか皆目わからないのです。約2週間の旅の後、満州の国境地帯に到着しました。

出征前、知人が岩波新書の『ドイツ戦没学生の手紙』を持たせてくれました。入隊して早々、それを上官に咎められ、ビリビリと全部ちぎってペーチカの中へ投げ捨てられました。夜中に呼び出されて暴行を受け、血だるまになったこともありました。8月ごろ、幹部候補生の試験に合格し、二等兵から上等兵へと昇進しました。

1945年8月9日午前0時、国境地帯は大雨でした。そこに雪崩のように、ソビエト軍が侵攻してきたのです。相手は157万の大軍で、主力はソビエト陸軍自慢のT-34戦車部隊でした。戦車を相手として、凄惨な殺戮が始まったのです。8月14日、東京で「聖断」が行なわれた時、満州の小豆山では、砲兵戦・白兵戦の殺し合いが行われていたのです。

のちに、昭和21年1月の「関東軍作戦計画訓令」をみたところ、主たる抵抗は国境地帯において行い、抗戦部隊(私が所属した124師団のことです)はその地域内において玉砕せしめる、補給は予定しない、とされていました。つまり玉砕命令です。124師団は、悲惨にも、あらかじめ犠牲となるよう計画されていたのです。

124師団の定員は15,000名、対するソ連軍は150,000名です。それが真正面からぶつかって激突したのです。10:1という言葉では想像もできない、言いがたい恐怖でした。古い精神主義・建前主義で動く日本軍に対し、ソ連軍は近代的な重装備で、T-34戦車や自動小銃・狙撃銃などを揃えていました。結果、するべくして玉砕したのです。15,000名のうち生存者は1,200名ほどでした。防衛省防衛研究所の資料には「四散消滅」とあります。

私は小豆山のふもとで敵に発見されました。脱出不能、絶体絶命です。ソ連兵は長時間射撃し続け、手榴弾も投げ込まれました。勝利したソ連軍の車列が煌々と明かりをつけて進軍するなか、道がS型に曲がっているところが一箇所だけあり、深夜、そこを命がけで突破しました。

その後、武装解除され、延吉収容所に送られました。そこには45,000人も収容されていました。そこで、ソ連兵に、日本へ帰すからクラスキーノまで歩け、そこから貨車でウラジオストックに行く、と言われました。徒歩の苦しさは生き地獄でした。まさに死の行進です。クラスキーノで貨物に乗せられました。10月、もう冬が迫っています。50人もすしづめにされた貨車には、15センチくらいの穴があり、そこが便所でした。ウラジオストックでは乗船の準備が間に合わないとかで、ニコライエフスクまで列車は走りました。

10日間くらいで貨車を降り、そこで強制抑留だと聞かされたのです。日本人は20年、ドイツ人は終身だと。俺たちは帰るはずだった、何が何だかわからない、もうだめだ、と絶望しました。10月22日夜、7名が首をくくって自殺してしまいました。スターリンは、8月23日のソ連国家防衛委員会で、日本人捕虜609,000名をソ連の経済復興に利用する、2,000カ所の収容所を設けて強制労働をさせると決定していたのでした。

シベリアの強制労働では一年間に2,000名が死にました。死んだら裸にされて穴に埋められました。また将校による統制に対する「民主化運動」も起きました。あるとき、ある人物の態度が悪いということで、将校たちが彼を撲殺するという事件が起きました。それが引き金になって、日頃労働もせずゴロゴロしている将校たちに対する強い反感から、彼らを「反動分子」として吊し上げたのです。こんなに苦労しているのにぶらぶらしているのはなにごとかと、謝罪を強制しました。若さゆえに、自分たちでも止められなかったのです。

一方、内地の実家には、すでに戦死公報が送達され、私は戦死したことになっていました。ところが、その後、私がシベリアから送った手紙が父親に届きました。母親代わりに慕っていた上の姉はその手紙を枕許に置いて亡くなりました。1947年9月、私の戦死公報は取り消されました。

抑留から3年経ったころ、突然帰ることになりました。やっと帰れる、歓迎されるか──と思いきや、まったく歓迎されませんでした。その当時の日本は食糧不足で、シベリアから60万も帰ってきたら食わせるものもなくどうしようもない、その上、抑留者はソ連に留め置かれて「アカ」になっている、危険人物だとまで言われ、騒然とした状況でした。

その時、私は血を吐いたのです。肺結核でした。ヤミ価格で一本7000円するストレプトマイシンを、父が40本買ってくれました。それで一命をとりとめたのですが、一人取り残されたという寂しさ、孤愁の思いが消えることはありませんでした。

日本は我々を犠牲にしたのです。棄兵し、棄民した。これが戦争の不条理です。これがわれわれのいう祖国なのか、われわれの祖国とはこんなものなのかと、いくら声を上げても、体を震わせてみても何もしてくれない国を、どこか信じきれないようなものが何かある。信じなければならない、と思いつつも。

同時に、大きな加害を残しました。近隣諸国、朝鮮・中国に、恐怖と悲惨の限りを与えました。もし相手の立場だったら、恨みがずっと続くのは当然だといえるのではないでしょうか。滅私奉公、青春をかけて戦った兵士たちは、国から見れば功労者です。にかかわらず、罪悪感がいつまでも残っています──国の犠牲になった。そして見棄てられた。知らぬ間に玉砕を命令されていた。そして侵略者だった。侵略戦争を国際的にお詫びする、何度でも、何度でも詫びるという姿勢が重要です。私たちは加害を忘れない、と言い続ける必要があるのではないでしょうか。

そして私たちに対して、戦争を謝罪してほしいのです。政府は「慰める」という言い方をしますが、お詫びをしてほしいのです。国を代表して、国民を代表してお詫びしてほしい。経済的補償が欲しいのだろうという人もいるかもしれませんが、財政破綻に直面している日本にそれを要求するわけがありません。

経済の繁栄とともに、世界から尊敬されるような精神が必要なのです。加害と被害の歴史を国民に対してしっかり教え、広く国民的合意を形成するための議論を何年かけてもすべきです。二度と戦争しないと全世界に向かって謝罪し、努力を誓うべきです。

八田源也さん(1951年、政治経済学部卒)の講演

gakuto3eyecatch1945年3月に大学を受験し合格しましたが、戦時下で入学式もないし、先々の展望ができないので岡崎の実家にいました。岡崎には、7月20日、B29による焼夷弾爆撃があり、家が全焼してしまいました。そこでしばらく親戚宅に住んでいました。

その後、大学から豊川の海軍工廠に来いという指示がきました。8月はじめに寮に入れというので行きました。8月7日の空襲当日は身体検査があるということでしたが、軍医の都合で取り止めになり、巨大な工場の一部を見学して、そのまま寮に帰りました。その直後、10時13分から26分まで大空襲がありました。私は草取りをしていましたが、工場に爆弾が落ちて、これは大変だということになり、工場とは反対の畑の方向へ、寮からみんなで逃げ出して行きました。逃げる途中でも爆弾が落ちてくるので、ときどき伏せながら逃げました。そのうち爆音が止み、おもむろに寮に戻りました。

ややあって工場へ死体収容作業に行くことになりました。120機のB29が3,000もの爆弾を落とし、2500名ほどが死にました。まさに死屍累々、遺体の間を歩くような状況でした。私は爆風で崩れた防空壕を掘り起こす作業に従事しました。掘り起こすと、セーラー服を着た女学生がいました。その遺体を引きずりだして回収し、近くにある板切れを拾ってそれに乗せ、死体収容場に運びました。遺体を収容したといっても、もう人間の体ではありません。「人間」という感覚、正常な感覚でできる仕事ではありません。異常な事態です。経験しないとわからないことかもしれません。「もの」を整理するような感覚で、黙々と作業しました。

その後一週間、呆然としていました。死体収容場は寮のすぐそばでしたから、臭いで苦しんだことを覚えています。

そして終戦を迎えました。大事な発表があるから集まれと言われ聞いたのが例の「玉音放送」です。無責任な言い方かもしれませんが、ほっとしました。長かった戦争がやっと終わった、という感覚が未だに印象に残っています。学校から「帰っていいよ」ということになり、私は実家が近かったので、16日に帰りました。

9月からいよいよ早稲田で、待ちに待った授業が始まりました。食糧もなく、非常に厳しい状況でしたが、早々に大学の近くに下宿を見つけることができ、毎日真面目に学校に通いました。それまでずっと勤労動員で、その延長で行った海軍工廠では労働すらできないまま終わったのですから。教材も何もない中、ノートに鉛筆か万年筆だけ持って、先生が黒板を背にして喋られるのを一言ももらすまいとして懸命に書き取りました。一生懸命勉強したので優等生でした。

そのうち学生共済会に入らないかと誘われました。共済会の事業は日用品や書籍など物品の販売、アルバイト・下宿の斡旋です。学生が無報酬でやっていました。はじめてみると本当に夢中になってしまい、それまでとは逆に、学業をほどほどにして共済会中心に日常を過ごすようになりました。共済会は大隈銅像のすぐ前、文学部の建物の地下にありました。幸い、文学部の地下には自治会や雄弁会やスポーツ関係の団体が入っていたので、その連中と交流があり、本当に楽しい大学生活でした。早稲田は本当に自由でした。あんな楽しい学生生活はありませんでした。まさに「青春に悔いなし」です。

私は書籍部の責任者でしたので、書籍の1割引販売を独断で実行しました。生活も大変ですので、割引は多少でも学生の役に立つであろうと。けれど共済会の学生の委員は無報酬で、決算は赤字続きです。なんとか組織を立て直さなきゃならないということで、東京大学の生協に通っていろいろ勉強しながら、生協設立準備委員会を提案し、設立大会の準備を始めました。西門のあたりで趣意書を配っていた時、政治経済学部で金融論を講義していた中村佐一先生が「良いことやっているな、しっかりやってくれよ」と激励してくれたことは、今でも忘れられません。結局共済会を頑張りすぎたので、追試を受けての8月卒業になりました。その年の10月、後輩を中心にして早稲田大学生活協同組合の設立総会が開催されました。

再び戦争についてです。どんな理由があれ、再び戦争をやっちゃいかん、と心の底から訴えたいと思います。どんな理由があろうとも、二度と戦争を起こさないことを、若いみなさんに是非、お願いしたいと思っています。

体験者と学生の対話

学生との対話は、大日方純夫・文学学術院教授(大学史資料センター所長)が司会進行をつとめました。4名の学生が簡単な感想を述べたのち、学生からの質問に松本さん・八田さんが応答しました。

まず、「大学生であることに対する戦時下の社会の眼差しはどのようなものだったのか」という質問に対して、お二方ともに「大学進学率が低い時代だったので、大学生はある種のエリート階層であり、相応の評価を受けていた」と答えました。

「理系学生が学徒出陣の対象外だったことについて、出征を余儀なくされた学生たちはどのように思っていたのか」という質問に対して、八田さんは「国が戦うための武器を作る役割をしてくれたのだから、立派な人だと尊敬の対象にはなっても、ねたみなんてものは全くなかった」と語り、また松本さんは「私の知り合いは石川島播磨に入って船の設計や特殊潜航艇の図面を書いたりして、一時兵役は免除されていたので、ちょっと羨ましい気持ちもあったが、いずれ軍隊に行くのだから、とも思っていた。1944年に理工学部への転部試験があったので、大勢が一夜漬けの勉強で受験したが、みんな落ちた」と述べました。

「女子学生は学徒出陣にどんな思いをもっていたと思うか」という問いに対して、松本さんは「明治神宮外苑で女学生たちはみんな泣いていた。ハンカチを振って、悲しくて泣いた。けれど同時に、活躍してください、できれば無事で帰ってきてね、と。大きな矛盾を抱えていたのだと思う。私の上の姉は私がシリベアにいる間に死んだが、彼女はずっと日記を書いていた。そこには、早く平和になってほしい、平和な生活をしたい、と綴ってあった」と答えました。

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「復学せずにいた学生もいたと聞いたが、復学を選択した理由は」という質問に、八田さんは「勤労動員により、勉強したくてもできなかった。勉強したいという強い意欲があった」と答え、また松本さんは「帰ってきて復学は当たり前だと思っていた。1949年ごろ、大学は希望に満ちていて、アメリカ経済についての講義をみな目をキラキラさせながら聞いていた。マルクス経済学の先生が、立教大学の先生と論争して、負けたの負けないの、という話題もあった。大隈講堂ではいつも講演会が行われていて、石田博英氏、中曽根康弘氏なども来た。松谷(園田)天光光氏は歯切れの良い調子で未来の夢を語っていた。みんな一旗あげよう、と希望を持っていた」と述べました。

「今回の安保関連法について、戦争を体験した立場からどう思うか」という質問に対して、松本さんは「何度も法案を読んだが、何度読んでもよく分からない。疑念がいろいろ出てきて、話を聞いてもよく分からない。みんなが理解してから採決するなら良いのだが、みながよくわからないまま採決しようとするから、議論がかみ合わない。法律が成立したからと言っても、認められない。かつて曖昧なまま突っ走って、とんでもないことになったのだから」と答えました。八田さんは「まったく時代に逆行している。かつての戦争の時と同じことをやろうとしている。戦争体験者から見れば、今回の議論は話にならない」と語りました。また「若い人たちは、知識人として社会をリードしていかなければならないという、その役割を自覚してほしい。一生懸命勉強して、自分の信じる道を徹底的に追求してほしい」と期待を述べました。

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