大隈重信没後100年企画記事 第3回

大隈重信 没後100年企画

大隈重信のことばと写真でめぐる早稲田大学

2022年1月10日、本学創設者の大隈重信没後100年を迎えました。政治家であり教育者でもあった大隈 重信のことばと写真から、早稲田大学との関係をたどっていきます。

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【第 3回】 最期まで野心を貫き、勉強を続ける(1914~1922年)


1914年4月、大隈重信は再び政界に復帰し、首相兼内務大臣となった(第二次大隈内閣)。翌年8月には内閣改造に伴い、首相兼外務大臣となったが、この時文部大臣に指名されたのが当時の本学学長・高田 早苗である。高田は同月、学長職を辞して文部大臣に就任すると、大隈首相のもと教育制度改革に取り組み、翌9月には「大学令要項」をまとめ、文部省の諮問機関である教育調査会にはかった。この「大学令要項」には、従来法令上の大学と認められていなかった私立大学も大学として認可すること、当時大学入学資格を与えられていなかった女子の入学も認めることなどが記されていた。

高田の「大学令要項」は、反対意見から審議延期となっているうちに大隈内閣が総辞職(1916年10月)したため、実現することなく終わったが、私立大学の認可については1918年12月公布の「大学令」によって認められた。翌19年4月の始業式訓示において、大隈は学生たちに対して以下のように語りかけている。

我が早稲田大学も早晩……早晩というよりは当年中に全然大学令に依って大学となるに相違ないと信ずるのである。これは形であるが、しかし形もまた軽蔑することを得ない。形が一層学校の競争心を励ますのである。帝国大学その他の大学と競争するのである。(中略)
然(しか)らばこの後はケンブリッジ、オックスフォード、その他、仏蘭西(フランス)の大学、独逸(ドイツ)の大学、世界文化の進んでおるところの大学と競争する、こういうことになる。今まさにその準備をなしつつあるのである。諸君の今の境遇と早稲田大学の境遇とは同じである。諸君はまだ卒業していない。今まさに努力して競争しつつある。世界の優等の大学と競争するその初歩にあるのである。

〈『大隈重信演説談話集』(岩波文庫)148~149頁〉

大隈は1919年6月、大学令実施準備委員会を設置し、法令上の大学になるために規程を改正したり、学部学科の組織再編を行うなどの準備を進めたが、大きなネックとなったのが資金の問題であった。大学令においては、私立大学は大学経営に必要な基本財産の一部を国に供託することが定められていた。その金額は1大学50万円で、学部が1つ増えるごとに10万円を追加しなければならなかった。政治経済・法・文・商・理工の5学部での発足を目指していた早稲田は、計90万円の供託金を支払う必要があった。1918年当時の授業料が年額50円(理工は60円)であったので、途方もない金額であった。それに加えて、高等学院を新設するための費用として60万円が必要であったため、目標金額150万円の大学基金募集を開始した。この基金募集には岩崎小弥太、三井八郎右衛門、古河虎之助など財界の名士が多数応じ、1920年春には101万8980円もの基金が集まった。大隈は同年4月の高等学院開院式に合わせて自宅で午餐会を開き、寄付者、基金管理委員、大学維持員など大学設立に尽力した人々をねぎらった。

高等学院開院式招待会来賓(大隈邸)(1920年4月):早稲田大学大学史資料センター所蔵

こうして1920年2月、早稲田大学は大学令による大学として認可され、大隈が述べた通り帝国大学とも対等に競争できる存在となったのである。しかしその翌年、大隈は体調を崩し、秋には絶対安静を要するようになった。年末にはさらに病状が悪化し、摂護腺(前立腺の旧称)癌の破裂と診断された。

大隈が重篤な状況に陥ったことが報道されると、様々な立場・身分の人々から見舞いが贈られた。大正天皇・皇后、政財界の名士のほか、無名の一般市民から1000通を超える電報や手紙が寄せられたのである。そして早稲田の学生たちも、1922年1月8日、穴八幡神社に約1000名が集まり、大隈の病気平癒祈願を行った。学生たちはそのまま大隈邸に赴き、神社の守り札を婿養子である大隈 信常に手渡した。その守り札が信常から渡されると、危篤状態であった大隈は感動し、感謝の言葉をもらしたといわれている。

学生たちの願いもむなしく、その2日後の1922年1月10日、大隈は83年の人生の幕を閉じた。葬儀は1週間後の17日に日比谷公園で行われたが、イギリスの元首相であるウィリアム・グラッドストンの葬儀の例にならい、一般市民も参列できる「国民葬」の形式がとられた。これが日本で初めての国民葬であり、参列した人の数は、20万とも30万ともいわれている。このとき、早稲田大学と付属・系属校、および大隈が設立に携わった日本女子大学校の学生・生徒たち約2万人が隊列を組み、大隈邸から日比谷公園まで行進して葬儀に参列している。

大隈重信国民葬と参列者(1922年1月):早稲田大学大学史資料センター所蔵

学生たちの前で行った大隈最後の演説は、1921年4月の始業式におけるものであった。この中で大隈は、学生たちに次のように語りかけている。

諸君の勉強するゆえんは何だ。畢竟(ひっきょう)競争だ。人に負けぬようにやろうというに在るのだ。(中略)我輩は死ぬまで覇気を失わない。野心がなくなった時は死ぬのだ。そこで一生自己の力のあらん限り勉強を続けて行かなければならぬ。勉強を続けて行くと、初めは一向出来ないものも大器晩成で進んで行くのである。我輩はなんだか段々進むようだ。昨年の大隈より今年の大隈の方が物識りになっている。然(しか)らば来年はまた一層物識りになるであろう。全体学問というものは一生涯の事業である。

〈『大隈重信演説談話集』(岩波文庫)165頁〉

大正10年始業式(大隈重信総長訓示)(1921年4月):早稲田大学大学史資料センター所蔵

大隈は死の1ヶ月前に見舞いに訪れた高田に対し、「死ぬ日が近づくと死の研究をしなければならぬ。少しでも病気が良くなったら死の研究を始めよう」と語ったという(高田早苗『半峰昔ばなし』649頁)。大隈は最期まで野心を貫き、勉強を続けた。その精神は、大隈の死から100年経った今でも、遺したことばとともに、早稲田大学の中に息づいている。

(おわり)


文: 早稲田大学大学史資料センター 助手 田中 智子(たなか さとこ)

専門は日本近現代教育史、 特に大学史。 著書(共著)に『青山学院女子短期大学 六十五年史』(2016年)、『帝国大学における研究者の知的基盤 東北帝国大学を中心として』(2020年)がある。


 

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