顕彰状 小幡洋次郎氏

小幡(旧姓上武)洋次郎氏は1943年1月12日に群馬県邑楽町に生まれた。中学時代はテニスに励んだが、生来の熱き血をぶつけるには格闘技が向いていると考え、中学3年生の秋に早くも進学希望先であった群馬県立館林高等学校に出向き、数か月間柔道部で稽古に励んだ。しかし、当時、無差別級のみの世界であった柔道界で、軽量の自らの身に限界を感じ、柔道場の隣にあるレスリング部に興味を抱いた。

1959年4月に館林高等学校入学後、レスリング部に入部するや直ちに頭角を現し、2年生で国民体育大会、3年生でインターハイでの優勝を掴む。

1962年4月に早稲田大学第二商学部に入学し、同年の全日本選手権でフリースタイルバンタム級3位を獲得する。1963年9月に米国へ留学し、オクラホマ州立大学教育学部に入学。オクラホマ州は全米有数のレスリングの盛んな土地柄であり、氏はこの地で更なる精進を重ね、翌年に生涯最大の偉業にチャレンジする機会に恵まれる。夏休みに帰国して全日本選手権に優勝し、オリンピックの代表選手に選ばれると、1964年10月、東京オリンピックのフリースタイルバンタム級において見事優勝する。高校でレスリングを始めて以来6年足らずで成し遂げた快挙である。この大会で日本のレスリングはフリースタイルとグレコローマンスタイルで計5個の金メダルを獲得し、レスリングは日本の「お家芸」であるとの認知度を一気に高めた。

米国に戻った氏は1964年から66年にかけて全米学生レスリング連盟(NCAA)主催の全米レスリング選手権大会を3連覇、特に65年と66年には最優秀選手賞を受賞している。66年の世界選手権には米国チームのアシスタントコーチとして遠征に帯同しており、指導者としての資質も選手時代から既に評価されていたと言えよう。この2年後の68年6月にオクラホマ州立大学を卒業する。

日本に帰国後、再びオリンピック出場の切符を手にして、1968年10月、メキシコオリンピックのフリースタイルバンタム級で再び優勝を果たす。日本の男子レスリングでオリンピック2連覇の偉業はいまだ破られぬ記録である。決勝戦の途中で肩を脱臼するも、顔面蒼白のまま最後まで戦い抜き、表彰台には腕を吊って登場した時の雄姿は今なお語り継がれている。69年秋に小幡に改姓し、地元群馬の旅館チェーン「みやこ」に入社する。1985年に社名を「ニューミヤコホテル」に改めて専務取締役、89年に代表取締役社長に就任する。2009年からは会長となり、現在に至る。

氏は選手引退後も日本レスリング界の発展に尽力し、1972年のミュンヘンオリンピックでは日本チームのコーチ、76年のモントリオールオリンピックでは監督を務め、フリースタイルでの金メダル獲得に大いに貢献している。選手、指導者双方の実績が評価されて、1980年に米国レスリング協会の殿堂入り、2005年には国際レスリング連盟(FILA、現在のUWW)の殿堂入りを果たしている。

氏は1960年代の世界最高レベルのレスラーである事は疑いなく、早稲田大学に残した足跡は大なるものがある。

また1998年から2001年には館林市に隣接する栃木県足利市の教育委員長を務め、2010年から館林高等学校レスリング部OB会会長、2014年から群馬県教育委員会の委嘱を受け71歳にして館林高等学校レスリング部の外部コーチに就任して、今もなお、高校生と共に汗を流し、後進の育成に余念がない。オクラホマ州立大学時代は規定で練習の出来ないオフシーズンに、農作業の手伝いで足腰を鍛え、樹木を相手に見立ててタックル練習に励むなど、場所や環境を選ばずに精進する自らの経験を基に、逆境においてこそレスラーの真価が問われると学生や生徒達に語って止まない不屈の精神は、早稲田魂と言うに相応しい。

ここに早稲田大学は、類まれな競技力で日本レスリング界にオリンピック2連覇の金字塔を打ち立て、永年にわたり後進の育成や地域社会のスポーツ振興に尽力した多大なる貢献に対して、小幡洋次郎氏を早稲田大学スポーツ功労者として表彰し、永くその栄誉を讃えるものである。

2015年4月1日

早稲田大学

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