こんにちは。文化構想学部2年山岡真琴です。
2017年2月、早稲田大学エジプト学研究所から届いた大きなニュースを皆さんは覚えていますか?
エジプト学研究所 新たな岩窟墓を発見 – 早稲田大学
多くの新聞にも報道されたこの発見について、近藤二郎先生(早稲田大学文学学術院教授、早稲田大学エジプト学研究所所長)になんと直接インタビューすることができました!たくさんお話を伺うことができたので、今回から全3回にわたってその内容をお送りします。今回は発見の詳細について伺った第1回となります。
第1回 新発見の岩窟墓
第2回 早稲田とエジプトの50年
第3回 世界の中の早稲田、日本の中の早稲田
新発見はまだまだ続く?!
―本日はよろしくお願いします。まず、今回の発見の詳細を教えてください。
2007年12月からエジプトのルクソールのアル=コーカ地区(図1参照)で、アメンヘテプ3世(1)の高官ウセルハトの墓(図2参照)を調査しています。そこは谷状の地形のため5~10mほど厚く砂礫が堆積しているので、毎年砂礫を除去していって、そしてそのお墓の脇の部分で、今回新たに岩窟墓を見つけました。
2013年の12月にも同じ現場で新しい墓を見つけたのですが、来年ぐらいにもう一回掘るとまた一つ見つけられるかもしれません。
(注釈)アメンヘテプ3世…紀元前14世紀前半にファラオを務めた、新王国時代第18王朝の人物。ツタンカーメンの祖父。
―どのようにしてもう一つお墓がありそうという予想を立てるのでしょうか?
今回の発掘で南北に細長い岩窟墓の前庭部と考えられる部分が検出されました。この前庭部とみられる場所の南側に未知の岩窟墓の入口があることが予想されます。
―今回の墓は前回の墓の近くにありますが、被葬者同士に関わりがあったということですか?
いえ、そういうわけではありません。今までの発掘調査から墓全体の造りが大体見えてきていて、全面的に非常に広く、周りにまだ誰にも知られていないお墓がたくさんある可能性があることがわかってきました。
発掘にいたるまでと今後の調査
―先生がアル=コーカ地区の発掘をするまでの経緯はどういったものなのでしょうか?
50年前に吉村作治先生が早稲田のエジプト調査を始めた後、1971年からルクソールの西側でテーベの一番南寄りにある、マルカタ南という地域の調査が始まりました。私はその第6次調査(1976年)から参加しています。マルカタ南(図1参照)は日本人が始めて発掘権を獲得した場所で、そこはエジプト考古学の中では非常にマイナーな、紀元後2世紀くらいのローマ時代のものなんです。日本人はそれまで実績がなかったので、そういうところしか与えてもらえませんでした。
というのも、アスワン・ハイダム建設で遺跡が水没した時、それまでエジプト研究をやってこなかったような東欧やアルゼンチン・スペインなどの国も含めて、世界中が考古学者をレスキューに派遣したのですが、日本隊は派遣しなかったんです。唯一日本人で参加したのは、後に岩波新書で『ナイルに沈む歴史』という本を書いた、当時カイロで日本大使館の文化担当を務めていた鈴木八司(後の東海大学教授)という方だけでした。日本はお金も調査隊も出さなかったために、実績がないということで、その後すぐに発掘するという時に調査地がなかなか決まらなくて大変でした。
ところが、マルカタ南の調査中に見つかった「魚の丘」(図3)を発掘したところ、今発掘している、アメンヘテプ3世の、階段を持つ建物址が発見されました。ローマ時代の遺跡と聞いて調査していたマルカタ南は、実はアメンヘテプ3世のマルカタ王宮がすぐ北に隣接している場所だったんです。そこから調査のメインが、アメンヘテプ3世のいた18王朝の時代に移っていきます。
私たちはメトロポリタン美術館が1910年代に発掘調査を実施したのですが、報告書を出していなかったマルカタ王宮の再調査を行った後、王家の谷にあるアメンヘテプ3世の王墓を20年以上調査するようになり、それと並行してアメンヘテプ3世時代の主なお墓のリストを作成して報告書としてまとめました。その時のリストに、現在掘っているウセルハトのお墓もあったのですが、当時は埋まっていて100年くらい行方不明になっていました。行方不明だったのは墓がある場所が谷状の地形で厚い砂礫の下に埋まっていたからなのですが、その砂礫をどけるためには金も時間もかかるので欧米のエジプト研究者も誰もやらなかったんですね。それでも大体の場所はわかっていたので、「機会があれば発掘したい」、「このお墓をなんとかしよう」、と30年くらい前からずっと私は考えていたのですが、その周りには人家があって人が住んでいたから発掘ができませんでした。2006年にようやく人家の移動が行われて発掘ができるようになったので、2007年に許可を受けてようやく発掘を開始しました。これが現在の発掘のきっかけです。
―今回の発見もアメンヘテプ3世研究につながっていくものなのでしょうか?
アメンヘテプ3世が18王朝の人物であるのに対して、4年前の発見も今回の発見も実際は18王朝より100年ほど後の19王朝のものと分かっています。ただ、調査している場所はアメンヘテプ3世の時代だけでなく、岩窟墓が作られる過程がよくわかる場所なんです。また、私たちが掘っているウセルハトのお墓は特殊な大型のお墓で、他のお墓が自然の地形に合わせて入口を掘っているのに対して、入口が東側、太陽の方向を向いているんです。これはアメンヘテプ3世のいた時代に造られたお墓に見られる、日の出の方向に入口があるという面白い特徴です。
全部発掘すれば、この地域にどういう順番でお墓が造られていったのか、どのように利用されていったのか、そしてこの18王朝の大型のお墓が使われなくなった時に後にどのように別の人がお墓として造っていったのかということの、順番や規模を解明することができるという意味でこのお墓はものすごく重要な遺跡です。
―今回の発見が今後展覧会のような形で見られるようになることはあるのでしょうか?
展覧会ではなかなか難しいです。前回の発見の時は朝日新聞の事業部の人に頼んで写真パネル展を何カ所かでやったので、そういうのはできるかもしれません。
―私は古代エジプトに関する展覧会に子どものころからよく行っているのですが、昔は古代エジプトの文化そのものを扱っていたのに対して、最近は段々とテーマが細かくなっているように感じます。展示内容の流れが変わってきているのでしょうか?
エジプトの女性や、死者の書などの各論ってことですね。日本にはまだオリジナルの展覧会を作れるだけの経験がないんです。例えば『クレオパトラと王妃展』のときは、日本側の監修者は私で、展覧会全体の監修者はルーブル美術館の女性キュレーターでした。日本で展覧会をするときに二人で話し合って、展覧会の内容を決めました。
その時のカタログの表紙に載ってるレリーフはウセルハトの墓から見つかったもので、ベルギーの博物館から借りてきて上野に持ってきました。また、このレリーフのレプリカを発掘が終わった後にベルギーの博物館がくれるというので、我々でお墓に入れようと考えています。
―レプリカを入れるということは、発掘したお墓をいずれ観光地にするということですか?
綺麗なお墓もあるので、エジプト政府としてはここを整備してほしいんです。そこがなかなか大変です。
―整備も含めて調査なのでしょうか?
そうです。やることが山のようにあって、あと十年やっても終わりません。土木工事もやらないといけませんし、壁画も今は綺麗ですが、どんどん退色していくため、東京文化財研究所の壁画の専門家の方とどう保護するかということに取り組んでいます。人骨もたくさん出てくるので、国立科学博物館の人類学の先生方に来てもらったり、壁の顔料分析をするために東京理科大学の先生に来てもらったりと、共同研究者に様々な人を入れています。
―たくさんの人が調査に関わるんですね。
我々だけでは人骨を見ることも顔料の分析もできないので、それぐらいやらないと調査ができません。
―発見してからが長いということですか?
長いです。発見して終わりではありませんし、遺跡を新しく発見した者である程度きっちり責任を持たないと遺跡がダメになってしまうんです。一方で、他のアラブの国と同じようにエジプトでも今ナショナリズムが高騰していて、基本的に共同調査という形を取らないと調査が認められなくなってきています。そうなる前から我々は発掘しているので大体調査できますが、エジプト側の要望と言いますか、エジプト政府の人が毎日現場に来て「ここはどうするのか」と私に聞きに来るので、その時に向こうが満足いく返事をしないといけません。そういった部分で折り合いをつけることが大変ですね。
まだまだお話の続きはあるのですが、今回はここまでです!
発見の詳細だけでも濃いお話が盛りだくさんでした。今回の新発見が今後どのように広がっていくのかが楽しみです!
次回は早稲田エジプト学研究所がエジプトと築いてきた信頼関係や、現地調査での大変なところについて伺った模様をお届けします。お楽しみに!