日本のエジプト考古学研究をリードする早稲田大学のエジプト研究は、今年で 50 年を迎えます。これまで数々 の発見を成し遂げてきた日本のエジプト学の軌跡と今後の展望について、早稲田大学のエジプト調査・研究の草 創期から携わってきた2 人の先生に語っていただきました。後編となる今回は、メディアでもおなじみの吉村作治名誉教授にご登場いただきます。前編はこちらから。
1966 年に初めてエジプトの土を踏んでから、50 年がたちます。私のエジプト調査の歴史は、まさに早稲田大学 と共に歩み、築き上げたものです。ここでは、私のこれまでの紆余(うよ)曲折とこれからの夢についてお話ししましょう。
図書館で出合った運命の一冊『ツタンカーメン王のひみつ』
小学4 年生のころ、私はおとなしい子どもだったので、よくいじめられていました。どこならいじめっ子が追い かけて来ないか考えて、たどり着いたのが図書館。活発な子たちは図書館には寄りつかないので、私にとっての聖域になっていたのです。
当時、先生に「本が好きなら伝記を読むといい」と勧められて手にしたのが『少年少女世界の名著』という世界 文学全集。そこで出合ったのが『ツタンカーメン王のひみつ』(講談社・現在は絶版)という、1922 年にツタン カーメン王墓を発見したイギリス人考古学者、ハワード・カーターの物語でした。この本に魅せられ、夢中で読 み終わると、「将来はエジプトで発掘をするぞ」と心に決めたのです。これがエジプトとの長い付き合いの始まりでした。
3 浪しても東大入学がかなわず早稲田大学へ
それではエジプトで発掘をしたいならどうすればいいか? 先生に尋ねてみると、「いい大学に行き、考古学者に なればいい」と言います。それからは中学・高校時代と勉強に明け暮れ、東京大学を目指しました。高校では、 将来のエジプトでの発掘作業に備えて、英語を身に付けたり、山岳部に所属して体を鍛えたりして過ごしました。 そして、夢をかなえるためにいざ東大を受験してみたものの、そこは簡単にはいきません(笑)。結局 3 浪して も東大入学はかなわず、早稲田大学に進学することにしました。
今日の私があるのは早稲田大学のおかげなのですが、巡り合わせはそれほど劇的なものではなかったのです。
エジプト調査をしたいと大学に直談判
早稲田大学第一文学部に入学した私は、学部の仲間にさまざまな議論をぶつけました。その中の一つが、「将来 の夢を語り合おう」というもの。周りより年上だった私から尋ねてみたものの、みんな夢なんてないようなこと を言うんです。「吉村くんはどうなんだ?」と問われ、私が「エジプト考古学者になり、現地で発掘調査をする のだ」と答えると、仲間たちが「ぜひ自分も連れて行ってくれ」と言い出したのです。
あっという間に 10 人ほどの志望者が集まったので、私は「エジプトに調査をしに行きたいので資金を出してほ しい」と大学に頼みました。しかし、答えは「やりたいなら他大学へ行け」という素っ気ないもの。そんなとき、 当時第一文学部の講師だった故・川村喜一先生が親身になって相談に乗ってくれました。
「欧米の学者の本を読んでいても仕方がない。エジプトを知りたいなら、何としても現地へ行かなければならない」。 川村先生は強い信念でそう語り、自らが隊長となってエジプト調査隊を組織。1966年に、初めてのエジプト現地 調査となるナイル川流域ジェネラル・サーベイ(踏査)を実現します。このとき私は学部3年生、22歳でした。 エジプトに行くと決めたものの、先立つ資金がほとんどありません。そこで、大型客船や貨物船でエジプトまで 乗せてもらえないかと海運会社や石油会社に直談判。そのうち面白がってくれる会社が現れ、私たち学生5人の 隊員はタンカー「東海丸」に乗せてもらえることに。川村先生も航空会社からエジプト行きの航空券を確保しま した。さらに、自動車メーカーから四輪駆動車を借り、食品メーカーからも大量の缶詰や即席麺を提供してもらい、タンカーに乗り込みました。
こうして、私たち5人の学生と川村先生は無事エジプトに到着。全土を車で踏破し、ほとんどの遺跡を巡りまし た。初めてエジプトの土を踏んで体感したのは「水も食も気候も、全てが自分に合う」ということ。苦労を乗り 越えた末のエジプト行きだったので、とても感慨深かったのを思い出します。ただ、それから 50 年も調査に明 け暮れるようになるとは、当時は想像もしませんでした。
偶然の出会いが生んだ発掘権獲得
翌 1967 年から、私は本格的にエジプト考古学を学ぶべく、カイロ大学考古学研究所に留学します。ここで現地 のエジプト考古学の教授たちと出会い、さまざまな調査に同行させてもらいました。
現場で発掘を経験し自信を深めていきましたが、いざ日本人でチームを組んで調査をしようとすると、エジプト 政府の許可が必要になります。しかし、発掘権を握っている考古庁の長官がなかなか会ってくれません。 そんなある日、カイロからルクソール行きの飛行機に乗っていたところ、隣にたまたま座っていたのが当時のエ ジプト考古庁長官であるガマール・エルディン・モクタール博士。これには驚きました。「千載一遇のチャンス!」 と思い事情を説明したところ、博士は親身になって話を聞いてくださり、ついに発掘権の交渉が成立に向けて動き出します。
私は日本の考古学研究の技術力を説明するために、モクタール博士を日本に招待するなどの交渉を重ね、1970 年、ついに念願の発掘権を獲得。これはアジアの国々で初となる快挙でした。
不思議なことに、エジプト調査ではこうした偶然の出会いに何度も助けられました。
川村喜一先生急逝の悲劇を乗り越えて
発掘権は、エジプト政府の意向でアスワン、ルクソール、ギザ、サッカラ、アレクサンドリアに限定されました。 そこで、私たちは1971年12月から、ルクソール西岸マルカタ南で発掘を開始しました。
そして、文部省(当時)の研究費補助の期限が間近に迫っていた 3 シーズン目の 1974 年 1 月、同地域の魚の丘 遺跡において、アメンヘテプ 3 世の祭殿の一部と見られる彩色階段をついに発見し、世界的な注目を集めます。 この発掘の最中に隊長だった川村喜一先生が急逝するという悲劇もありましたが、プロジェクトは故・桜井清彦 先生、故・渡辺保忠先生に引き継がれ、続々と成果を上げていきます
その後も1982年のルクソール西岸クルナ村貴族墓における約200体のミイラ発見、1987年のギザの大ピラミッ ドにおける「クフ王の第2の太陽の船」確認など、4、5年に一度のペースで世界的な発見をする機会に恵まれ、 今日まで調査を続けてきました。
実は私は、1987年に44歳で人間科学部の助教授(当時)となるまで、非常勤講師を務めながらも組織に所属し ない“フリーター”でした。というのも、テレビ局でのアルバイトをきっかけにテレビ番組に出演するようにな り、講演やコマーシャル出演などの仕事が忙しかったのです。メディア露出が多いことでたくさんの批判も受け ましたが、それは全て発掘のため。エジプトでの調査には莫大(ばくだい)な費用が必要で、スポンサーからの 支援の他に、私財を投じて発掘を進めていたのです。
エジプト調査に役立つのであれば、批判も怖くありません。メディア出演を通じて一般の方にも広くわれわれの 活動を知ってもらうことは、エジプト考古学の発展のためになると信じていたからです。
考古学に不可欠な「運」を味方につけるには
研究成果というのは、挙げようと思って挙がるものではありません。考古学は「運」を味方につけることも重要 な要素。どうしたら、偶然を呼び込めるのか…。それは、日々地道に努力を続けるしかありません
自分のためだけに努力をしても意味はありません。早稲田大学創立者、大隈重信がそうだったように、早稲田大 学のため、日本のため、人類のために、自己を犠牲にして頑張る。そうすると神様がそれをしっかり見ているか のように大発見が舞い降りるのです。私は50年の調査経験で、それを痛感しています。
もちろん考古学研究には「運」だけでなく、センスも必要です。ギザの大ピラミッドで「クフ王の第2の太陽の船」を確認した際も、第一の太陽の船が見つかった時点でここにもう 1 つ船があるに違いないと直感した私は、 当時の最先端技術、電磁波探査レーダーによる調査を根気よく続け、成果につなげたのです
また、2005年にダハシュール北遺跡で青いマスクをかぶった中王国時代の軍司令官「セヌウ」の未盗掘完全ミイ ラを発見したときも世界を驚かせました。これは「宇宙考古学」、つまり宇宙の人工衛星から見て遺跡を探すと いう手法が実を結んだ発見です。この遺跡からは未盗掘の貴族墓が4基も見つかりましたが、それは極めてまれ なこと。一般的には、一生で未盗掘墓が一基見つかれば御の字といわれています。その幸運を手繰り寄せたのも 早稲田大学調査隊のセンスによるところが大きいと思います。
次の目標はクフ王の王墓を見つけること
世間の注目を集めたギザの大ピラミッド「クフ王の第2の太陽の船」の発掘は、長らく調査が休止していた時代 を経て、現在、大がかりなプロジェクトとして保存修復処理を施しながら復原作業が行われています。 私は現在 5 つの発掘権を保有しておりますが、そろそろじっくりと後進の指導にもあたりたいと考えています。
人間一人きりでは、大したことはできません。やはりチームがあってこそ大きな成果が生み出せるのです。その 点で考古学は団体戦だといえますね。
私は「無常識」な人間でありたい
ここだけの話ですが、私にはひそかな目標があります。それは、クフ王の王墓を見つけること。ギザの大ピラミッドは、クフ王の王墓であるという説が根強いのですが、本物の王墓を発見して、世界の常識をひっくり返すつ もりです。その日は確実に近づきつつあります。
私は「非常識」ならぬ「無常識」な人間です。世界の研究者たちが想像もしないような目標を掲げることが原動 力になるのです。現在73歳になりますが、体は健康そのもの。毎年、何回もエジプトを訪れています。 愛するエジプトのため、日本のエジプト考古学発展のため、発掘調査を志す後輩たちのため、まだまだ引退する わけにはいきません。
- 吉村 作治(よしむら・さくじ)
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早稲田大学名誉教授。工学博士(早大)。専門は、エジプト考古学、比較文明学、世界遺産学。2015年4月より、 東日本国際大学学長就任。
1943年、東京都生まれ。1970年、早稲田大学第一文学部卒業。1966年にアジア初のエジプト調査隊を組織し、 発掘調査を始めてから約半世紀にわたり調査・研究を続けている。電磁波探査レーダー、人工衛星の画像解析と いった最先端の科学技術を駆使した調査により、数々の成果を挙げた。古代エジプト文明を広く知ってもらうた め、カイロ博物館所蔵品のエジプト展の開催、講演会やイベント、テレビなどのメディア出演を活用してきた。 現地の情報から培われたイスラムについての造詣も深い。また現在は「日本の祭り」を原点にした地域振興・創 世の試み、E-ラーニングを活用した教育の普及にも努めている。
公式Webサイト 吉村作治のエジプトピア:http://www.egypt.co.jp/