Notice大切なお知らせ

早稲田の留学生の里帰り

※この記事では、2018年春に発行されたWASEDA USAのニュースレター Vol. 11に掲載されたMichael Kaplanさん(1984~1985年、国際部)の寄稿記事を転載しています

成功を収めた早稲田大学の卒業生を紹介する記事は珍しいものではありません。私自身の話も例外ではないでしょうか?

1985年に、初めて家を遠く離れ、大学で学ぶ20歳の私は、どれだけ早稲田大学が自分のキャリアや生活に影響を与えるかは想像しようがありませんでした。私がいまだに驚いていることは、私が教室外で東京を巡りながら学んだ文化や芸術や友情や家族、つまり人生についてのレッスンです。

Michael Kaplanさん

確かに、早稲田大学は私にプロフェッショナルへの扉を開いてくれました。ある日、私が体験した不思議な就職面接は決して忘れません。卒業後はじめての面接であり、会議室では私と日本人の役員4人がいました。私はその時彼らに私の日本語力が入社後に向上することを一生懸命に説明したのに違いありません。そして面接は、「月曜日から出勤して下さい」との役員からの一言で終了しました。

その後、私はとある日本の家電メーカーのマーケティングディレクターに就任しました。これらの機会は言語スキルや文化差異の知識のおかげで得たものではありませんでした。振り返ってみると私が成功できた理由は、文化的の差異を超えたところにあります。早稲田大学は、立場、言語やタイムゾーンなどにとらわれず、「コミュニケーションを取る」という意欲を学ばせてくれました。とても感謝しています。

早稲田大学での記憶はいまだに鮮明です。政治経済学部Wada教授は、私に製造の世界への目を開かせてくれました。(当時のフィールドトリップで私は製造の工場を初めて訪れました)。国際学生の顧問のKeikoさんはそれ以上の役割を果たしてくれました。彼女は私達を温かく迎え、学業面から社会的タブーに関することまで教えてくださり、私たちを不要なトラブルから回避してくれました。彼女の仕事は決して容易いものではなかったと思います。Hongoさんについても忘れられません。彼は、私が日本に来た最初の一週間の順応機関に一緒にいてくれたボランティアの学生でした。最初の夜はとても素晴らしく、車で横浜のチャイナタウンに行き中華料理を食べ、そして銭湯にも行きました。今でもそのときの笑い声、ぎこちなさ、番頭が私を見た時のびっくりした顔を覚えています。熱いお湯に飛び込んだ時につい叫んでしまったのも覚えています。

とは言え、この私の早稲田物語の本当の英雄は桃井八重子さんです。私の「お母さん」です。全くの見知らぬ日本語力ゼロの人を自分の家に歓迎する勇気を想像してみて下さい。桃井家は私を家族の一人として私を受け入れて下さった恩人です。西船橋にあったあの家に住んでいることで、文化の違いはそれほど重要でないことが解ってきました。私の新しい家族は、育てられてきた環境から遥かに離れた世界で学んでいたナイーブな一人の青年に、どれだけ私たちは似ているのかということを教えてくれました。

長年、お母さんに連絡をしてなく罪悪感を抱いていたのですが、私は2017年12月に西船橋市へと戻る機会がありました。道を思い出すまでは多少の時間はかかりましたが、ついにその一軒の家に辿り着きました。(前回訪れた時よりも新しい建物がたくさんできていました。)。それはとても感情的かつ素晴らしい再会でした。お母さんの顔も昔のままですし、元気さも人懐こさも変わりはありませんでした。

この貴重なファミリーストーリーの舞台をつくってくれた早稲田大学には、心から感謝しています。既に次回の訪問の予定を立てており、とても楽しみにしています。

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