雉子橋邸時代の大隈にとって、もっとも大きな出来事は、明治政府を下野し、立憲改進党を結党して政党政治家へと転身したことだろう。
大隈も主導した明治政府の近代化政策は、さまざまな意味で日本社会にあつれきをうみ、新政反対一揆や士族反乱を引き起こした。その余波は、前回触れた竹橋事件のように、政府高官の身辺に及ぶようになった。このようなエネルギーを土台に、憲法制定や国会開設を主張する自由民権運動が展開した。
明治政府は、なんらかのかたちで憲法制定や国会開設を行うことを迫られる。そのことを政府部内で強く主張したのが、かつて築地梁山泊に集った少壮官僚たち、すなわち大隈重信・伊藤博文・井上馨だった。なかでも大隈は、政府部内では最も急進的な立場で、早期の議会開設・憲法制定や議院内閣制の採用を説いた。しかし大隈のこの主張は、伊藤・井上らを含めた政府部内の反発を招く。

大隈重信の上奏文(写)、国立国会図書館蔵
さらに1881年、開拓使官有物払下げ事件が起こる。開拓使長官・黒田清隆が、知己の五代友厚に対して北海道の開拓使官有物を有利に払い下げる──という情報が民間にリークされ、政府が厳しく批判された事件である。政府部内には、このリークが大隈によるものだ、という憶測が流れた。

『団団珍聞』より「幕内の相撲」(1881年)
これらにより同年10月12日、1890年に国会開設を行うことが公告されるとともに、筆頭参議・大隈重信は罷免された。いわゆる「明治十四年の政変」である(真辺将之『大隈重信』、中央公論新社、2017年参照)。

大隈参議免官辞令(写)(1881年)
明治十四年の政変は、ひとり大隈だけではなく、大隈に近かった官僚たち──河野敏鎌・矢野文雄・尾崎行雄・犬養毅・小野梓ら──の下野にもつながった。他方、自由民権運動政党である自由党が10月18日に結党するが、そこに参加しなかった沼間守一・田中正造らの自由民権家がおり、これらの人びとを中心に独自に政党を結成しようという動きが生まれた。この運動のキーパーソンが、小野であった。
小野は、彼に私淑していた東京大学学生の岡山兼吉・高田早苗・小川為次郎・市島謙吉・天野為之・山田一郎らとも協議しながら、大隈と政党結成について話し合っていた。12月17日には「何以結党」(何を以て党を結ぶか)という結党を具体化する文書を、大隈に送っている。そして小野は「立憲改進党趣意書」原案の作成を担当し、1882年4月16日、立憲改進党が結党された。この立憲改進党で、大隈は総理、小野は掌事となる。この後の大隈は、第一義的には、政党政治家として活動してゆく(大日方純夫『小野梓 未完のプロジェクト』、冨山房インターナショナル、2016年参照)。
この立憲改進党結党を協議する場が、大隈の雉子橋邸であった。
興味深いことに、小野はそれまで大隈のことを、「大隈参議」「大隈」などと呼んでいたが、立憲改進党結党を協議している1881年11月26日条から、「雉橋老」と呼びはじめた(「留客斎日記」『小野梓全集』第5巻378頁)。大隈は、この時期の小野にとって、官名をこえて敬愛すべき存在となったのだろう。その時選ばれたのが、大隈の住地「雉子橋」だったのである。