雉子橋邸を知っていますか 最終回 「雉橋老」から「早稲田老」へ

明治十四年の政変後、明治政府を下野し立憲改進党を結党した大隈重信は、さらに東京専門学校創設にむけて活動を続けていく。

雉子橋邸を知っていますか 第4回 明治十四年の政変

大隈英麿

もともと大隈は、婿養子・大隈(南部)英麿に理学系の学校を創設させたいという思いから、別邸のあった早稲田に学校の開設を準備していた。

大隈重信が東京専門学校を開こうとしたそもそもの動機は、養子英麿の才能を生かして理科の学校を創立することにあった。高田早苗の記すところが事実であるとすれば、鷗渡会員が二度目に大隈に面晤した時、「自分は早稲田に別邸を有つて居る。今回養子英麿が米国で天文学を研究して帰り、理科の学校を開かうといふので、それが為に別邸内に建築した小さい校舎を充てようと思つて居た。」(『半峰昔ばなし』九七頁)と言ったことに始まる。大隈は国土開発や鉄道敷設等に並々ならぬ関心を寄せていたから、大隈自身も理科系の学校を開設しようと熱望していた。

『早稲田大学百年史』第1巻第2編第10章

ところが明治十四年の政変によって、それまで大隈の配下だった小野梓も下野、東京大学学生であった高田天野為之岡山兼吉らも官途にたたないことを決心した。そこで彼らを講師として、理科系だけでなく、政治・経済・法律をも教授する東京専門学校を創設することになったのである。後年大隈は小野を追憶して、次のように述べている。

また小野君は自分が中心となって我輩等と学校を設立することとなった。これは政治法律の新智識を有し、自由独立の精神に富むところの第二の国民を作るためである。これよりさき帝国大学に在学しておった高田、天野諸氏は、当時橋場に住まった梓君を休日に訪問し、我が国の時事を談論することを常としていた。この頃から小野君はこの連中を我輩に紹介して、彼等は年少なる書生であるが、将来必ず事を為すところの人物であり、また将来我輩のためにもなるから見知りおかれる様にとのことであった。その後梓君はこれらの連中と我輩とを結び付けて、ついに一の学校を経営することとなった。これが即ち早稲田大学の前身たる東京専門学校を起した動機の一つである。

「東洋学人を懐う」『大隈重信演説談話集』2016年、岩波書店。底本は江森泰吉編『大隈伯百話』実業之日本社、1909年。初出は「小野梓君追懐談」『早稲田学報』第157号、1908年。

小野の「留客斎日記」1882年7月7日条には「晩間雉橋老を訪い、早稲田学校の事を議す」とある(『小野梓全集』第5巻、404頁)。これが「留客斎日記」における東京専門学校創設記事の初見である。みるように、この時すでに早稲田に学校を創設することにはなっていたが、そのことを大隈と話し合い、また入学希望者に対応する場は、この雉子橋邸であった。

ところで新校舎は建築中であり、また早稲田の別邸で生徒募集の事務を執るのでは、応募者も少かろうという配慮もあり、雉子橋邸内の長屋の一隅を臨時の事務所にし、高田らがこれにつめかけて、入学の問合せや申込みに応じていたが、九月末に校舎も落成したのでこれに移り、本格的な開設準備のため忙殺されるようになった。

『早稲田大学百年史』第1巻、446頁

1882年(明治15)9月付の東京専門学校の「私塾設置願」は初代校長となった大隈英麿名で出されたが、大隈英麿の住所は「麹町区飯田町一丁目一番地」と、雉子橋邸の住所になっていた。また、9月22日付の郵便報知新聞に掲載された「東京専門学校開設広告」においては、

一、此外仔細ノ事目ハ東京麴町区飯田町一丁目一番地東京専門学校事務所ニ就テ之ヲ尋問スベシ。

とされた。

9月末に新校舎が落成、以降東京専門学校の事務は早稲田の新校舎で執られるようになり、10月21日の開校式は早稲田で挙行された。小野は「留客斎日記」10月21日条に次のように記す。

早起。車を飛ばして早稲田に到り、雉橋老とともに東京専門学校開校の準備をなす

『小野梓全集』第5巻、416頁

この時点においても、小野は大隈を「雉橋老」──「早稲田老」ではなく──と呼んでいる。

では、別邸のあった早稲田に、大隈が本邸を移したのはいつだろうか。

先に見た「留客斎日記」1884年2月26日条に「早稲田老を訪う。雉橋老は昨日以て早稲田に移住す。」(『小野梓全集』第5巻、487頁)とあることから、それは1884年2月25日だったとわかる。この日以来大隈は、「早稲田老」「早稲田伯」と呼ばれるようになる。のちに大隈は、「雉子橋の塵挨の裡を脱け出てて此早稲田の田圃に匍ひ出た」『大隈侯昔日譚』、報知新聞社出版部、1922年、269頁)と回想している。

東京専門学校全景、1890年(明治23)頃

岸畑久吉「早稲田大学風景」、1936年(昭和11)。前掲の写真をもとに描かれたものと推定される

東京専門学校第1回得業証書授与式(1884年7月26日)

ところで、大隈が引き払ったのちの雉子橋邸は、誰の手に渡ったのだろうか。

『大隈重信関係文書』第5巻に所載されている書翰をみると、大隈は小松彰(当時東京株式取引所頭取で、大隈が創立した壬午銀行に関係していた)を通じ、渋沢栄一に売却などの処分を依頼していた。渋沢は小松に対して、「さて兼ねてお内話これあり候雉子橋大隈君宅御売却の義この間少々心当りの話相生じ候得共、直段はかつて相伺い候如き高値には相成りまじきや」と、建物売却済ならその分も値段が下がることになるが、相手次第でなるべく相談して取り決めたい──と伝えている。渋沢は大隈の旧友で、終生友情を保ち続けたが、このような話を大隈と直接行うことにはためらいがあったらしい。小松宛の書翰で渋沢は、

右等の事は大隈君へ直々申上候も少々差支これあり

『大隈重信関係文書』第5巻、235頁

と、その複雑な心情を吐露している。

渋沢は雉子橋邸を賃貸することも考えたようだ。ある大臣から、「当分借用」(たぶん短期賃貸の意味だろう)は無理だが、両三年の約定なら借用したいという意向を打診された渋沢は、小松を通じて大隈に賃貸料の希望額を聞いている(『大隈重信関係文書』第5巻、237頁)。政府高官たる「大臣」が雉子橋邸に住むことに意欲を示した──おそらくこのささいなエピソードも、雉子橋邸が有する象徴的意味、すなわち「権力中枢に近接する場であるということ」を物語ると言えよう。

最終的には1887年2月10日、渋沢自身が地所・建物・家具こみで5万5500円で買い上げることになり、その約定がかわされた(「雉子橋邸売渡約定証」『大隈文書』イ14、A5231)。その額がいかほどのものかを理解するには、その5年前・1882年に大隈が早稲田の土地を50円36銭4厘で購入したことと比較すればよいだろう。なお雉子橋邸には、のちにフランス公使館が設置されたが、その経緯は不明である。

「雉子橋邸売渡約定書」写(1887)。「姿見鏡大小 八面」など、屋敷内の調度・什器も列記されている

1887年7月29日、条約改正交渉が中止され、担当者・井上馨外相が辞任し、その後継者として大隈が目される。翌1888年2月1日に大隈は外相に就任、明治政府の高官へと返り咲き、その後外相・首相を歴任することとなる。大臣就任時、大隈はそれぞれの官邸に居住したが、本邸を早稲田から移すことはなかった。

さて、ここまで5回にわたって、主として雉子橋邸時代の大隈、雉子橋邸に集ったひとびと、さまざまな出来事を概観してきた。紙幅の都合で語りきれなかったことも多々あるけれども、このシリーズはひとまずここで筆を擱きたい。

文責:大学史資料センター・中嶋久人

雉子橋邸を知っていますか 第4回 明治十四年の政変

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