爽やかな掛け声が、球場に放物線を描いた。快晴の日には、遥か遠くに富士が見える。
安部球場が西早稲田からここ東伏見キャンパスに移転したのは1987年。
「安部磯雄」の名をふたたび冠し、安部磯雄記念野球場としたのは、昨年2015年のことだ。
遡ること115年前の1901年、安部磯雄は体育部長兼野球部長に就任した。
しかし自前の球場をもたず空き地を練習場としていた野球部は、なかなか伸びない。
大隈を訪問した安部はグラウンド新設を提案するが、大隈は首を縦に振らない。
安部は一計を案じ、国際親善試合の夢を大隈に吹き込んだ──
そして翌1902年、早稲田大学開校を期して新設された三千余坪の「戸塚球場」。
スタンドがなく、見物席は三塁側の土手の傾斜面。
1933年には日本初のナイター設備が導入され、時の文部大臣・鳩山一郎が始球式を務めた。
その名を「安部球場」と改めたのは、安部磯雄が亡くなった1949年だった。
1987年11月。
数々の名勝負、そして日本の野球史をフィールドに刻んできた安部球場は、その幕を下ろした。
全早慶戦が催された後のグラウンドには、野球に青春を捧げたかつての選手たちが土を集める姿があったという。
球場の跡には、総合学術センター・中央図書館が建設された。
そこには、野球部の生みの親・安部磯雄、育ての親・飛田穂洲ふたつの胸像が、かつてそこにグラウンドがあったことをひっそりと伝える。
もはや掛け声が早稲田田圃の夕空を染めることはないが、
その魂は、今日も東伏見へと受け継がれている。