第25回「石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞」贈呈式 受賞者挨拶 ― 岡田 浩平 氏

【公共奉仕部門 奨励賞】

被爆80年企画「ヒロシマ ドキュメント」

中国新聞、中国新聞デジタル

岡田 浩平 氏の挨拶

このたびは、被爆80年企画「ヒロシマ ドキュメント」に奨励賞をいただき、誠にありがとうございました。取材班を代表して心より御礼申し上げます。そして、今回の取材に協力いただいた被爆者や遺族の皆さまに、あらためて感謝を申し上げたいと思います。

1945年8月6日、広島は米軍の落とした、たった1発の原爆により壊滅しました。爆心地から半径2キロ圏内の建物は全壊、全焼。熱線、爆風、放射線被害により、1945年末までに約14万人が亡くなったとされています。中国新聞社も、爆心地の東900メートルにあった本社は全焼し、当時の社員の3分の1に近い114人が犠牲になりました。顔や髪、皮膚が焼けただれ、火傷は膨れ上がり、この世の人間と思えない人たちが泣きうめく、そんな光景を目の当たりにした中国新聞写真部員の松重美人さんが、怒りと激しい悲しみの中でシャッターを切り、涙でファインダーが曇ったと証言しています。

原爆投下当日に市民の惨状を捉えた唯一の写真群は、私たちの原爆平和報道の原点であり続けます。あの日から80年が経ちましたが、被爆者の訴えもむなしく、核兵器はなくならないどころか、その威力にすがる各国の動きが目立ちます。三度、核兵器が人間の頭上に使われたら何が起きるのか。私たちは広島の惨禍を愚直に伝え続けねばならぬと考えました。

今回その手立てとしたのが、写真や手記、日記といった記録物です。とりわけ、中国新聞を含む報道機関5社と広島市がユネスコの「世界の記憶」に共同で申請している、1945年のヒロシマの写真1,532点と映像2点が、今回の企画の出発点になりました。水川恭輔編集委員を中心とする取材班は膨大な資料に向き合い、原爆被害者や遺族の皆さまを探し出し、そして証言を引き出し、1945年の被爆後の1日1日を再現するという、弊社でも過去にない原爆平和報道に取り組みました。

「原爆は威力として知られたか、人間的悲惨として知られたか」—1964年、冷戦のただ中に本紙の論説主幹だった金井利博さんが問うています。この人間的悲惨に向き合った先に、広島の市民は、どう原爆をなくし、平和へ行動しようとしたのか。戦後の歩みも私たちはたどりました。その道しるべとしたのが、日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の初代事務局長の藤居平一さんの「庶民の歴史を世界史にする」という言葉です。草の根に始まって、今に続く原水爆禁止運動や被爆者運動を解きほぐしました。さらに1995年、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の法廷に広島市民を代表して立ち、核兵器の使用や威嚇は国際法違反であると断じた当時の平岡敬市長の陳述も掘り下げました。国家ではなく、市民の側に立つことで伝えたかったのは、核兵器を作り、使ったのが人間なら、核兵器の使用を防ぎ、なくせるのもまた人間だという核時代の教訓です。

今、名前を挙げました藤居さん、平岡さんは、この早稲田の卒業生です。藤居さんは原爆でお父さんと妹さんを亡くし、その後、民生委員となり、社会に置き去りにされた原爆被害者の皆さんの救済のために立ち上がり、私財を投げうって運動の礎を築きました。また、平岡さんは元中国新聞の記者であり、我々の大先輩です。現在97歳になられますが、今なお広島のオピニオンリーダーとして存在感を放っておられます。

実は私も、1995年春にこの早稲田大学に入学し、法学部で4年間学びました。進取、そして在野というジャーナリストに必要な精神を育んでくれたこの母校から、今回このような栄誉をいただき、喜びと責任の重さをかみしめています。最後に、私たち取材班は、これからも広島の原点である記録と記憶に向き合い、核兵器も戦争もない世界の実現に資するべく、報道に取り組んでまいりたいと思います。本日はありがとうございました。

 

 
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