【草の根民主主義部門 奨励賞】
鍬を握る 満蒙開拓からの問い
信濃毎日新聞および書籍(信濃毎日新聞社)
上沼 可南波 氏の挨拶

このたび、「鍬を握る 満蒙開拓からの問い」に高い評価を与えてくださったことを大変光栄に存じます。また、取材にお力添えいただいた、たくさんの皆さまに感謝申し上げます。
満蒙開拓は、現在の中国東北部・満州に全国から27万人が農業移民などとして渡り、敗戦に伴う混乱の中、病気や集団自決などで8万人が命を落としました。都道府県別で最多の3万3千人を送り出した長野県において、満蒙開拓は語り継がなければならない歴史だと捉えています。取材班はデスクと30〜40歳代の記者計5人で構成し、私は戦時下の信濃毎日新聞が満蒙開拓についてどう報道していたのか、そして敗戦時に開拓団が現地住民により虐殺され、戦後の地域社会に深い傷跡を残した読書村について取材しました。
当時の本紙は、「満州国」を防衛し、国益を守るとの観点から満蒙開拓政策を一貫して支持しました。移民事業が始まった昭和7年から敗戦した20年までの13年間で、主なものだけでも700本を超える記事を掲載し、旗振り役となりました。元開拓団員の女性が晩年に書き残した手記に、新聞を見て「大陸の花嫁」になった―と綴られているのを見つけたほか、満州での意気込みを書いた作文が紙面に掲載された青少年義勇軍の少年が戦死していたことが分かり、衝撃を受けました。
のちに「抵抗の新聞人」として知られる当時の主筆・桐生悠々も、満州事変を支持していたことが弊社150年史の編纂や本紙連載「抵抗の水脈 生誕150年 桐生悠々と信毎」により明らかになりました。石橋湛山評論集によれば、この頃、東洋経済新報社の湛山は、日本が特殊権益保持に固執する限り満蒙問題の根本解決はできない―と断じています。報道各社が満州事変を支持していた当時としては異例の論調でした。
戦時下の報道を振り返る試みは、満蒙開拓を長年取材してきた取材班の先輩が「避けて通れない」と発言したことがきっかけでした。新聞統合政策により、長野県内で発行する新聞は本紙のみとなり、当局の広報宣伝の役割を担ったことで発行部数が伸び、経営基盤は強まりました。その歴史の上に私たちがいる事実を踏まえ、どんな姿勢で伝えるか、デスクや先輩記者たちと何度も議論しました。当時の記者を断罪することは簡単かもしれないが、逆に他人事として捉えている表れではないかとの助言も受け、等身大で向き合いたいと考えました。
今、日中関係が再び緊張状態になっています。戦後80年を迎えた今年8月、長野県の飯田日中友好協会と満蒙開拓平和記念館で作る訪中団に同行させていただき、黒竜江省にある開拓団の入植跡地を訪ねました。ただ、現地で亡くなった開拓団員の共同墓地である日本人公墓への立ち入りは許可されませんでした。この書籍を通じ、加害と被害が複雑に入り組んだ歴史を知り、自分がこの人の立場だったらどう振る舞ったのかと考えを巡らせ、深めるきっかけにしていただけたらと思っております。
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