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【Podcastコラム】江戸と今の法制度
Fri 13 Jun 25
Fri 13 Jun 25
早稲田大学では現在、ポッドキャスト番組「博士一歩前」 を配信中です。
今回は配信中のエピソードのうち、法学学術院の和仁かや教授に江戸時代の裁判例がその後の法制度にどのような影響を与えているのかお話いただいたので、その部分を抜粋してご紹介します。
Q. 江戸時代から明治に変わっていく中で、江戸時代の裁判がどのようにその後の法制度との接点を持っていったのか?
和仁かや教授:
江戸時代と明治時代との関係は、なかなか一口に語れません。やはり明治以降の日本の法制度を考えますと、これは江戸時代のものを下敷きにしたのではなく、新たに西洋諸国で培われた全く新しい法制度を導入しているからです。
異なる地域の法システムを導入する現象を法継受と呼びます。明治以前の日本でもはるか昔に、中国の法システムである律令を取り入れていますし、ヨーロッパ諸国でもローマ法の継受、あるいは植民地化に伴う宗主国由来の法システムの移植などいろいろなところで見られます。
しかしそういうものと比べても、明治に行われた西洋法継受は、かなり規模として大きいし、ドラスティックであるといえるのではないかと思います。
そもそも江戸時代において、外国とのチャネルが非常に限られているのは、すでに知られているところだと思いますが、そういう意味でほとんど全く知らなかったところから、まず外国の法律を翻訳するところから始めて、六法で言いますと、最初に成立したのが刑法、これが明治13年の1880年にできます。

そして最後にできたのが、法典論争など紆余曲折を経て、民法で明治29年の1896年、公布に至ります。
そうすると、明治維新から30年経つか経たないかのうちに、全く新しい法システムが導入されたことになります。もちろんこれには、お雇い外国人の力なども、多々借りていますが、それにしても自前で作ったという点については、大きいと評価できるのではないかと思います。
江戸時代と明治時代に戻りますが、やはりこれは断絶と考えるべき要因は多々あります。先ほど江戸時代でも比較的、丁寧な判断が行われていたとお話しましたが、そういった法的な素養やノウハウというのは、これはある意味その役人たちの家業として、非常に閉鎖的な形で培われたものです。
つまり奉行クラスになると別ですが、その下にいる与力や留役というのは、それぞれ専門の職に分化しています。例えば判例を専門に検索する与力、あるいは取調べを専門する与力など、そういう形に職掌として分かれています。

そしてそれをあたかも歌舞伎や茶道、華道のように家業として代々継いでいくというやり方をとっていました。そうすると広く共有されることはありませんし、結局幕府が瓦解して、その職を担う家自体がなくなってしまうと、そこで途絶えてしまうことになります。
ただそうは言っても、先ほどの西洋法継受という大事業、これがわずか30年で行われたことに鑑みれば、全く野蛮な裁判しかなかったようなところに、果たしてこういうことが可能であるでしょうか。
事実、その西洋法、あるいは諸制度の導入にあたった人たちの多くは、江戸時代に生まれ、そこで基礎的な教育を受けており、場合によっては実務経験を持った人たちです。大隈重信や福澤諭吉と言いますと、いかにも近代の人というイメージが強いかもしれませんが、彼らは30代までは江戸時代を生きています。
それを考えますと、さまざまな意味で、江戸時代に培われたものが底流をなしていると考える方が、むしろ自然であると思います。実際にそういうような例も、多々見受けられると言えます。
和仁 かや 教授
法学学術院教授。東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。東京大学大学院法学政治学研究科基礎法学専攻博士課程を単位取得退学後、日本学術振興会特別研究員、神戸学院大学法学部、九州大学法学部勤務を経て、2018年9月から早稲田大学 法学学術院教授。現在のご専門は、日本法史(日本法制史)、とりわけ江戸時代の法・裁判制度。
城谷 和代 准教授(番組MC)
研究戦略センター准教授。専門は研究推進、地球科学・環境科学。 2006年 早稲田大学教育学部理学科地球科学専修卒業、2011年 東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了 博士(理学)、2011年 産業技術総合研究所地質調査総合センター研究員、2015年 神戸大学学術研究推進機構学術研究推進室(URA)特命講師、2023年4 月から現職。

左から、城谷和代准教授、和仁かや教授。
早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリ)のスタジオで収録。