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Vol.9 法制史(1/2)/【江戸時代の罪と罰】幕府が悩んだ量刑判断と「公事方御定書」が下した解釈 / 和仁かや教授

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Thu 10 Apr 25

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Thu 10 Apr 25

「早稲田大学Podcasts : 博士一歩前」は、早稲田大学に所属する研究者たちとの対話を通じ、日々の研究で得た深い世界や、社会を理解するヒントや視点をお届けします。
異分野の研究から得られる「ひらめき」「セレンディピティ」「学問や世の中への関心」を持つきっかけとなるエピソードを配信し、「知の扉」の手前から扉の向こうへの一歩前進を後押しするような番組を目指しています。

今回と次回の二回にわたって、早稲田大学法学学術院和仁かや教授をゲストに、「江戸の罪と罰——幕府が悩んだ量刑判断」をテーマにお届けします。

 

時代劇で描かれるような即決の処刑とは異なり、江戸時代の裁判は実情に即した慎重な判断が行われていました。

 

加害者・被害者の年齢や関係性、生活状況などを考慮した量刑判断や、厳格な刑罰に対する江戸時代の裁判官たちの柔軟な解釈、さらに「公事方御定書」に基づく判断の実態から、江戸時代の法と現代の法制度を比較し、その違いを実感しながら、当時の司法の独自性を深く掘り下げていきます。

 

後編エピソードはこちらからお聴きいただけます。

エピソードは下のリンクから

ゲスト:和仁 かや

東京大学法学部第3類(政治コース)卒業。東京大学大学院法学政治学研究科基礎法学専攻博士課程を単位取得退学後、日本学術振興会特別研究員、神戸学院大学法学部、九州大学法学部勤務を経て、2018年9月から早稲田大学 法学学術院教授。現在のご専門は、日本法史(日本法制史)、とりわけ江戸時代の法・裁判制度。

ホスト:城谷 和代

研究戦略センター准教授。専門は研究推進、地球科学・環境科学。 2006年 早稲田大学教育学部理学科地球科学専修卒業、2011年 東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻博士課程修了 博士(理学)、2011年 産業技術総合研究所地質調査総合センター研究員、2015年 神戸大学学術研究推進機構学術研究推進室(URA)特命講師、2023年4 月から現職。

左から、城谷和代准教授、和仁かや教授。<br />
早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリ)のスタジオで収録。<br />

左から、城谷和代准教授、和仁かや教授。
早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリ)のスタジオで収録。

エピソード要約

-和仁教授の研究分野
和仁教授は、18世紀半ば以降の江戸幕府の法制度と裁判制度を主な研究対象としており、この時期が法制度の転換点であると考えている。

-公事方御定書とは
八代将軍徳川吉宗が主導して編纂した『公事方御定書(くじがたおさだめがき)』は、刑事法だけでなく手続法や民事法も含む総合法典であり、以降の裁判の規範として位置づけられた。御定書は上下二巻で構成されており、上巻には幕府が出した重要な触(単行法令)、下巻には裁判基準として用いられる総合法典的内容が記されており、特に刑法条文には中国の法典『明律』の影響が強く見られる。御定書では条文ごとに一律の刑罰が定められ、裁判官の裁量は制限されたが、条文の固定化により実情との乖離が進み、役人たちは柔軟な判断や軽減要素を模索するようになった。

-江戸時代の拷問について
江戸時代における拷問は法制度として存在していたが、実際には適用できる犯罪が限定され、証拠があるのに容疑者が認めない場合に限られるなど、厳しい条件が課されていた。また、拷問の実施には老中らの慎重な審議が必要であり、年に一度あるかどうかというレベルであり、現場の役人たちも積極的に拷問を行おうとしなかった実態があった。加えて、拷問による自白があったとしても、その取り調べの乱暴さが量刑判断の段階で問題視されることが多く、無理な自白はむしろ証拠としての信用性を損なうと考えられていた。

エピソード書き起こし

城谷准教授(以下、城谷):
今回のエピソードから法学学術院シリーズをお届けします。今回と次回では早稲田大学法学学術院の和仁かや教授をゲストに、「江戸の罪と罰——幕府が悩んだ量刑判断」をテーマにお話をお届けします。
和仁先生は東京大学法学部第3類政治コースをご卒業。東京大学大学院法学政治学研究科基礎法学専攻博士課程を単位取得退学後、日本学術振興会特別研究員、神戸学院大学法学部、九州大学法学部勤務を経て、2018年9月より早稲田大学法学学術院の教授に就かれています。現在のご専門は日本法史、とりわけ江戸時代の法裁判制度です。和仁先生、どうぞよろしくお願いいたします。

和仁教授(以下、和仁):
よろしくお願いいたします。

城谷:
改めまして、先生のご専門である日本法史とはどのような学問でしょうか。そして今回と次回のエピソードを通じて、リスナーの皆さんにお伝えしたい内容について、一言いただけますでしょうか。

和仁:
法制史は一般的にあまり馴染みのある学問分野ではないかもしれませんが、あえて簡単に言えば、法の歴史を研究対象とする学問です。扱う地域によって大きく日本、西洋、東洋の法制史、そしてローマ法に分けられますが、私は日本、中でも近世、すなわち江戸時代、その中でも裁判制度を専門としています。全国に数多くある法を学ぶ学部や大学院での教育や研究の対象としては、憲法や民法など現在通用する法、すなわち実定法がまず思い浮かぶと思いますが、これに対して法制史は法学部の必修科目ではなく、専任の担当者が置かれていないところも多いです。しかし日本では近代的な大学制度が生まれた当初から設けられていました。その意味では法学でもそれなりに歴史のある分野ではあります。法学研究と江戸時代の結びつき、あるいはそもそも江戸時代自体、イメージが湧きにくいという方も多いかもしれませんが、今回はちょっとした異文化体験も兼ねてのご紹介ができればと考えています。現代の感覚や常識では理解できないことが多々ある一方で、「意外と人間考えることは変わらない」という側面も垣間見え、さまざまな面から面白い対象であり、少しでもその面白さをお伝えできれば幸いです。

城谷:
江戸時代の裁判と聞くと、よく時代劇で見るような罪人がすぐに処刑されるシーンが思い浮かんでしまいますが、実際にはどのような裁判が運営されていたのかとなると、具体的なイメージは湧きにくいと感じています。また江戸時代といっても、260年以上の長い期間がありますので、そういった中でずっと続いていったものもある一方で、変わっていったものもあると思いますが、和仁先生は江戸時代の中でもどの時期を中心に研究されているのでしょうか。

和仁:
私は江戸時代の中でも、特に18世紀半ば以降の幕府の法や裁判制度を中心にこれまで研究してきました。なぜこの時期かというと、これが幕府法、幕府の法制度において、一つの画期を成すからです。18世紀の半ばに八代将軍徳川吉宗が主導して『公事方御定書』(くじがたおさだめがき)を編纂します。この『公事方御定書』は、江戸幕府の刑法と紹介されることが多いです。しかし、確かに刑事法的な規定が多くを占めますが、手続法や民事法なども含んでおり、いわば総合法典とも言うべきものになっています。この御定書(公事方御定書)が制定されてからは、これが核となる裁判規範として位置付けられ、さらに裁判例を蓄積してこれも規範として活用する。そうした方針が明確に打ち出されてきて、裁判実務などのやり方も固まってきます。逆に言いますと、それ以前の幕府はまとまった裁判規範も持ちませんし、裁判記録にしても蓄積して活用しようという意識が希薄でした。それに加えて残されたわずかな記録類も、何度も江戸を襲った大火事などで失われており、あまり残っていません。そのため、これまでの研究も記録、手がかりの多く残る御定書制定以降を中心に進められてきました。

城谷:
御定書ができる前は蓄積活用しようという考えが、あまりなかったということですが、吉宗の考えで、蓄積・活用していこうとなったのでしょうか。 やはりその方が裁判を進める上で効率が良い、納得感が得られるような進め方になっていくということだったのでしょうか。

和仁:
さまざまな事情があるだろうとは思いますし、吉宗一人でということではありませんが、やはり吉宗のイニシアティブが大きかったのは確かだと思います。吉宗は中国の法典である『明律』の研究に非常に熱心に取り組んだことでも知られています。
『明律』はいろいろなところで研究はされていますが、やはりこれを範に取ろうとした吉宗の意向というのは、とても大きいと思います。加えてやはり幕府の政権がかなり安定して固まってきて、安定的な裁判制度も運用していかなければいけないとなりますと、やはりそこに依拠すべき規範などが求められていく。そのようなこととも合わせて、やはり御定書の編纂につながっていったのではないかと思います。

城谷:
少し御定書の中身を教えていただきたいのですが、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。 例えば盗みを働いた場合、江戸時代の裁判ではどのような基準で刑が定められたのでしょうか。

和仁:
御定書について少しご紹介しますと、これは上下二巻から構成されたものです。上巻の方は御定書編纂時点までに幕府が出していた、「触」と呼ばれる御触です。触と呼ばれる単行法令のうち、重要なものを収録したものになっています。そして下巻の方が先ほどお話した総合法典としての性質を持つもので、以後これが裁判実務において使われていくことになります。御定書に多く含まれる刑事法的な規定には、現代の刑法と比較してもさまざまな特徴がありますは、中でも条文のあり方に『明律』を非常に熱心に研究していた吉宗の意向などが強く反映されていました。後ほど盗みについてはお話をしようと思いますが、ここでは殺人罪を例にとってみたいと思います。現行刑法の199条では、殺人罪は人を殺した者は死刑または無期、もしくは5年以上の拘禁刑に処するとあります。しかし御定書では、誰をどのような手段で殺したかなどを具体的に示す。人を殺した者などと一般的にするのではなく、親なのか先生なのか主人なのかというように、それをどのような手段で殺したか。そういったことを具体的に示した上で、現行刑法のように死刑から5年以上の拘禁刑までといった法定刑に幅を持たせず、ただ一つの刑罰を規定することになります。これは裁判役人の裁量を可能な限り狭め、その判断を立法レベルで拘束しようとする、まさに律の思想に基づくものです。そうすると事案にぴったり当てはまる条文があれば同じ刑罰が自動的に導き出される。その意味では、究極とも言うべき罪刑法定主義に見えますが、実際はなかなかうまくはいきませんでした。

城谷:
今のお話を伺いますと、先ほど私がお伺いした盗みについても、やはり全てのパターンがはまらないような印象を受けましたが、その刑量の判断基準というのは、盗みの場合、どのような形だったのでしょうか。

和仁:
それでは窃盗に関する条文を一つご紹介します。盗んだものが10両以上であれば死罪、それ以下であれば入れ墨敲。この入れ墨敲という刑罰ですが、これは入れ墨を入れた上で、箒尻と呼ばれる棒のようなもので、50回背骨のあたりを打ち据えるというものになります。この10両以上を盗めば死罪というのは、おそらく江戸時代の法として、比較的一般的にも知られたものではないかと思います。とはいえ10両以上のものを盗んだら、この条文を適用して何でも一律死罪もいかがなものか、という感覚は当時の役人にもありました。

城谷:
ちなみに10両は今の価値にするとどのくらいでしょうか。

和仁:
(1両が)だいたい10万円前後、幕末だと5~6万円だと思います。そこそこまとまった金額という感覚を持っていたと思います。そもそもですが、賭博罪など一部を除き、御定書が規定する刑罰は、役人たちからしても重いという感覚を持っていました。できるだけ死刑にはしたくないという姿勢は、裁判記録の随所に現れています。しかしそうは言っても、彼らは立場上、将軍様自ら制定に携わった御定書の規定が間違っているなどとは、やはり大っぴらには言えません。ここにもう一つ、御定書の大きな問題・特徴があります。御定書の条文は1742年、元号で言いますと寛保2年にひとまず完成します。そしてそこから10年ほどは追加改正が行われます。しかし宝暦4年、西暦で言いますと大体1754年ですが、それ以降は幕末まで条文が固定されてしまう。ここから一切修正や追加が行われない。そうするとなおさら実情に合わないことなどが多く出てきます。そのため、役人たちは御定書の規定はあくまでベースとする。しかしそこから軽減すべき、もしくは軽減できる要素や理屈をなんとか見出そうとしていました。

城谷:
例えば今のところで罪人の境遇が裁判の判断に影響を与えることはあったのでしょうか。

和仁:
軽減材料として、やはり罪人の境遇というのは大きな要素になったと思います。もう同情の余地がないのか、あるいは食べるにも困る貧しさから、致し方なく盗ってしまったのかというのは量刑判断に大きく関わってきます。それから判断能力に問題があると認定された場合にも、これは軽減すべき要因として、積極的に考慮されました。さらに言えば、これは少し少年法に似たところがあると思いますが、15歳以下の子どもへの刑罰に関しては、御定書にはっきりとした規定があり、盗みの場合には、大人より一等軽減することになっています。さらに加害者のみならず、被害者側の事情も考慮要因として働きました。例えば、障がい者など弱い立場とされた人の所持品を盗む行為。こういったことは「人倫にもとる」とされ、盗んだものの金額や故意の程度に関わらず、一律死罪という大変重い規定となっており、実際の記録でもこれに則した判断がされる傾向にあります。町人や農民、すなわち庶民の意見をダイレクトに取り入れることは、なかなか見られませんが、彼らが常にお上のお裁きに注目しているという自覚は強く持ち続けています。赤穂浪士の一件などは世論に押されたケースの象徴だと思います。

城谷:
江戸の裁判は打ち首、獄門などの厳しい刑罰、拷問という印象がすごくありますが、実際に資料や絵などで描かれてたと思います。その絵というものは、当時描かれていたものなのでしょうか。

和仁:
まず前提として、江戸時代によくあるイメージの拷問、あるいは過酷な刑罰のインパクトは大きく、これが現代までいろいろな形で、江戸の一つのイメージを既定していることは間違いありません。これ自体が完全に実態に即して誤っていたとまでは言えません。しかし実情を見ていくと、いろいろ違った側面も見えてきます。例えば拷問について、これは確かに法制度としては認められていましたが、御定書でもかなり厳しい規定が設けられていました。そもそも拷問することが可能な犯罪は、基本的に殺人、放火、盗賊、関所破り、そして文書・印章偽造の5つですが、これであればすべて拷問してよいということではなく、証拠が上がっているにもかかわらず認めない場合に限られます。そもそも裁判手続き自体が、自白を得られなければ、刑罰を科す前提となる事実認定がなし得ないという構造になっていて、そのこと自体、今日から見れば大きな問題ですが、それでも証拠もないのに暴力的な手段に出ることは禁じられていました。拷問への敷居の高さは、実際の裁判記録にも現れており、例えばこれは本当にあったケースですが、ある親殺しについて、物的な証拠はないが、状況証拠からすればやったことはほぼ確実である。しかし罪を認めないので、拷問してもよいか、というお伺いが出されています。これを受けた老中と評定所はかなり慎重に議論を重ねた上で、結論として、やはり拷問をしてはならないという判断をしています。実際に当時の役人経験者の多くが、拷問は年に一回あるかないかであったと証言しています。

城谷:
大分抱いていたイメージと違うなと思いました。拷問自体は規制されていたとお聞きしましたが、それでもやはり乱暴な取り調べというのはなかったのでしょうか。

和仁:
拷問には確かに法的な規制がかかっていましたが、例えば牢問などと称して、叩くなどの乱暴な取り調べがなかったわけではありませんでした。ただ、取り調べを担当する現場の役人には、そもそも物理的な言い方は元より、乱暴な言い方を用いなければ自白を引き出せないのは、それ自体が無能な証拠であるという意識もありました。また、乱暴な取り調べによって自白を引き出したにしても、その証拠能力が、量刑判断の検討の段階で問題視されています。自白は得ているが、ずいぶん乱暴な取り調べをやったのではないか、これを信じていいのかと相当問題視されているケースも少なくありません。それをふまえると、やはり現代と比べれば乱暴であったと言えるかもしれませんが、流布しているイメージのように、とにかく片っ端から叩くということはなかったと言っていいのではないかと思います。もう一つ付け加えてお話しますと、当時の実務役人マニュアルに、拷問をやるときは、肝を据えてやらなければいけないというのがあります。つまり裏を返せば、役人にしても拷問をするのが嫌だった、及び腰だった実態もあったと言えるのではないかと思います。

城谷:
そうするとよく絵で見るような縄で締め上げられて、石を上に乗せられ、痛そうな絵というのはいつ描かれたのでしょうか。

和仁:
おそらくメディアなどでよく出てくるのが、『徳川刑事図譜』というものだと思います。非常におどろおどろしい残酷な刑罰、拷問が描かれていて、これが当時のまさに江戸時代の実態であると説明されています。ただ、あれをよく見てみますと、明治20年代になってから描かれたものであり、さらに英語の序文がついています。つまり、これは西洋に向けた一つのアピール、当時条約改正などの課題を抱えていたので、司法がここまで近代化したことを主張するには、江戸時代が野蛮であればあるこそ、その点が効果的にアピールできる。そういった事情はあったのではないかと思います。

城谷:
ありがとうございました。今のお話で明治政府によって、江戸時代の裁判というのが野蛮なものとして描かれたと感じましたが、江戸時代から明治に変わっていく中で、江戸時代の裁判がどのようにその後の法制度との接点を持っていったのでしょうか。

和仁:
江戸時代と明治時代との関係は、なかなか一口に語れません。やはり明治以降の日本の法制度を考えますと、これは江戸時代のものを下敷きにしたのではなく、新たに西洋諸国で培われた全く新しい法制度を導入しているからです。異なる地域の法システムを導入する現象を法継受と呼びます。明治以前の日本でもはるか昔に、中国の法システムである律令を取り入れていますし、ヨーロッパ諸国でもローマ法の継受、あるいは植民地化に伴う宗主国由来の法システムの移植などいろいろなところで見られます。しかしそういうものと比べても、明治に行われた西洋法継受は、かなり規模として大きいし、ドラスティックであるといえるのではないかと思います。そもそも江戸時代において、外国とのチャネルが非常に限られているのは、すでに知られているところだと思いますが、そういう意味でほとんど全く知らなかったところから、まず外国の法律を翻訳するところから始めて、六法で言いますと、最初に成立したのが刑法、これが明治13年の1880年にできます。そして最後にできたのが、法典論争など紆余曲折を経て、民法で明治29年の1896年、公布に至ります。そうすると、明治維新から30年経つか経たないかのうちに、全く新しい法システムが導入されたことになります。もちろんこれには、お雇い外国人の力なども、多々借りていますが、それにしても自前で作ったという点については、大きいと評価できるのではないかと思います。江戸時代と明治時代に戻りますが、やはりこれは断絶と考えるべき要因は多々あります。先ほど江戸時代でも比較的、丁寧な判断な行われていたとお話しましたが、そういった法的な素養やノウハウというのは、これはある意味その役人たちの家業として、非常に閉鎖的な形で培われたものです。つまり奉行クラスになると別ですが、その下にいる与力や留役というのは、それぞれ専門の職に分化しています。例えば判例を専門に検索する与力、あるいは取調べを専門する与力など、そういう形に職掌として分かれています。そしてそれをあたかも歌舞伎や茶道、華道のように家業として代々継いでいくというやり方をとっていました。そうすると広く共有されることはありませんし、結局幕府が瓦解して、その職を担う家自体がなくなってしまうと、そこで途絶えてしまうことになります。ただそうは言っても、先ほどの西洋法継受という大事業、これがわずか30年で行われたことに鑑みれば、全く野蛮な裁判しかなかったようなところに、果たしてこういうことが可能であるでしょうか。事実、その西洋法、あるいは諸制度の導入にあたった人たちの多くは、江戸時代に生まれ、そこで基礎的な教育を受けており、場合によっては実務経験を持った人たちです。大隈重信や福澤諭吉と言いますと、いかにも近代の人というイメージが強いかもしれませんが、彼らは30代までは江戸時代を生きています。それを考えますと、さまざまな意味で、江戸時代に培われたものが底流をなしていると考える方が、むしろ自然であると思います。実際にそういうような例も、多々見受けられると言えます。

城谷:
ありがとうございました。前半では江戸時代の量刑制度が、どのように運用されていったのかを中心にお伺いしました。後編では法制史を学ぶ上で求められる「アクティブリーディング」の姿勢をテーマに、記録の行間をどう読み、歴史の背後にある社会常識をどう探るのか、その面白さに焦点を当てて、お話をお届けしていきたいと思います。

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