雉子橋邸を知っていますか 第2回 権力中枢に近接する場

大隈が居住することになった雉子橋とは、どのようなところだろうか。

『東京府名勝図絵』(1912年)より、飯田町の「仏国大使館」。『東京府名勝図絵』の出版年とキャプション、フランス公使館の所在地および島田謙吉『大隈侯一言一行』(1922年)の「後に(中略)フランス公使館となつた」という記述を勘案するに、この写真の建物が、雉子橋邸ではないかと推定される。

東京メトロ東西線竹橋駅を出ると、江戸城の石垣と内濠、そして内濠にかかる竹橋が目に入る。そこから、高速道路高架下をくぐって内濠ぞいに靖国通りのほうに向かうと、大きな3つの建物がならんでいる。これらの建物は、東京法務局や千代田区役所などが入居している九段合同庁舎である。千代田区役所が入居している九段第三合同庁舎の前、竹の植栽に囲まれたなかに、大隈講堂の時計台を模した碑が建っており、「大隈重信侯 雉子橋邸跡」と刻まれている。ここに、1876年(明治9)から1884年のあいだ、大隈重信が住んでいたのである。

この碑は早稲田大学創立125周年を記念して、2007年10月、大学と千代田稲門会によって建立された。現在は千代田稲門会が毎年7月頃、この碑の清掃を行っている

雉子橋邸跡記念碑の清掃

千代田稲門会のウェブサイトより「雉子橋邸跡記念碑の清掃」

碑に付設された千代田区教育委員会の「江戸幕府蔵屋敷の礎石」という説明板には、次のような紹介がある。

江戸城清水門前のこの場所は、将軍直属家臣の居住地や蔵・馬場、厩といった江戸城附属の施設が置かれました。平成16年(2004)の遺跡発掘調査では、近世初頭に水田地帯を埋め立てて屋敷を築いたことがわかりました。ここに設置した石は、敷地南半に広がる米蔵の礎石の一部で、配置は出土状態を再現しています。

近世、江戸城内濠と水路をなしていた日本橋川にはさまれたこの地は、幕府の蔵屋敷や直属重臣の居住地として利用された。権力の中枢に近接する場としての性格を有していたといえよう。

このような土地の性格は、明治期にも受け継がれた。参議・大蔵卿として明治新政府の枢要にあった大隈にとって、ふさわしい居住地であったといえる。参謀本部陸軍部測量局が1883年2月に作成した「五千分一東京図測量原図」には、雉子橋邸が「大隈邸」として描かれている。敷地の東側には池や緑地と思われるものが記載されているが、これは雉子橋邸の庭園だろうか。中心部に母屋があり、その西側には長屋や蔵と思われる家屋がいくつも所在している。雉子橋邸の前には江戸城の清水門(現存)があり、近衛兵舎があった北の丸につながっていた。当時仮皇居は赤坂にあったが、江戸城は皇城として天皇の居城として認識されており、象徴的にいえば、権力中枢に近接する場として雉子橋邸は意識されたといえる。

 

市島謙吉

雉子橋邸は当時、豪奢な屋敷だと認識されていた。邸宅は日本家屋と西洋家屋を折衷したもので、日本家屋のほうが面積は大きかったが、西洋家屋の屋上には小さな塔があったから、そちらのほうが目立っていただろう。この時期、東京大学の学生として大隈と面識のあった市島謙吉(のちに早稲田大学図書館初代図書館長となる)は、雉子橋邸を「洋館造り」とよび、

其頃は未だ洋館が僅かにベルギー公使館と木戸侯邸(今日は久邇宮邸)しかなかった時分だったから、誰れの眼にも可なりの立派なものと見えたのである。私等は其時未だ学生だったから殊にそれが立派なものと見えたのである。

市島謙吉『大隈侯一言一行』、早稲田大学出版部、1922年、271頁

と回想する。のちに雉子橋邸はフランス公使館となり、その時期の写真(本記事冒頭に掲載)が残っているが、それをみても西洋家屋に小さな塔が付属していたことがわかる。また雉子橋邸の設計は大隈自身の案によったもの、と市島は述べている。

さて1878年4月8日、大隈は雉子橋邸において明治天皇の訪問をうけることになった。『明治天皇紀』は次のように描いている。

邸は近時の新築にして其の結構頗る美なり、楼上に御少憩の後、桜花爛漫たる庭上を逍遥し、又書画の陳列を覧たまふ、重信、折詰料理・葡萄酒等を供進し、又長崎の文人池原香穉をして大字を揮毫せしむ

『明治天皇紀』第四、吉川弘文館、1970年、394-395頁

『明治天皇紀』によると、この訪問は右大臣岩倉具視が発案し、太政大臣三条実美と協議した上で申し出たものであった。岩倉としては、大隈重信邸を皮切りに、明治天皇が各参議を訪問することによって「上下和楽の一助」となることを期していた。しかし伊藤博文・大久保利通から、天皇の尊厳を侵すものだというクレームがついたために、結局は上野公園に行幸し、その帰途に立ち寄ったという体裁をとったとされている。この一事にも、権力の中枢にいた大隈の立ち位置が表れているといえよう。

この年の5月14日、明治政府を批判する島田一郎らによって大久保利通が暗殺され、その後をうけて、大隈が筆頭参議となった。大隈の上役には三条実美と岩倉具視しかおらず、序列上では明治政府の No. 3 ということになる。実質的に政務をとっている点からいえば、トップだといっても過言ではない。権力の中枢にすわった大隈にふさわしい屋敷が、この雉子橋邸だったのである。

文責:大学史資料センター・中嶋久人

雉子橋邸を知っていますか 第1回 大隈邸の変遷


雉子橋邸を知っていますか 第3回 雉子橋邸、襲撃される

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