自己紹介
こどもの頃から親しんでいた音楽は愉みに留めておくと決めた高校時代。限りなく面白く、意心地の良い場であった美術館で仕事をすることを目指し、美術史を学ぶコースがあった早稲田大学に進みました。
学生時代に関心を持ったテーマは、第二次世界大戦後、フランスの画家アンリ・マティスが晩年に取り組んだ南仏ヴァンスの礼拝堂の、キリストの生涯を主題とする壁画とステンドグラスについてでした。この礼拝堂が完成した1951年には、回顧展がニューヨーク近代美術館で、また新作展も各地の美術館で開催されるなど、美術史の上での検証と新作発表が美術館で進んでいるなかで、なぜ、信仰とは距離をおくこのモダニストの画家は、都市から遠く離れた修道院の敷地を、集大成となる作品の設置場所として選んだのか。それに対する私なりの解答を見つけるには、その後就職した、美術館での経験が必要でした。美術館におけるコレクションの展示では、個々の美術家の作品の意図は、美術館の考える展示の文脈と相入れない場合もあり、また展示の方法はときと共に変化していくという側面を知ることで、この画家が代表作の永続的な展示場所として、美術館とは別の空間を選択したことが理解できたのです。
学生時代の宿題については、在外研修で滞在したパリの美術館で考える時間を持てたのですが、実際のところ四半世紀、籍を置いた現代美術館の日常は、高校時代に夢想した静かな生活とは異なり、水鳥が水中で脚を絶え間なく動かすように、展示室の奥では、現代社会の変化と並走する美術家たちの活動に眼を凝らし、その意味を考え、マッピングしていく作業を続けていくこと、そのための調査の旅がかなりの部分を占めました。作品を展示し、また図録を編集することは、展覧会全体では後半の作業となりますが、これら一連の仕事を通して、美術館という制度ができた近代以降、現代に至る美術をめぐる語りが、その展示を軸に展開してきたものであることを実感できるようになりました。そこから、これまでの美術史の記述とは別のアプローチがあるのではないかということがわかってきたのです。
私の専門分野、ここが面白い!
例えば、1935年に八重洲で生まれ、東京藝大で油絵を学んだ磯辺行久の活動を考えてみましょう。1950年代から60年代半ばまで東京の美術館で抽象絵画やポップアートの作品を発表した磯辺は、1965年に渡米し、ニューヨーク市の公園や島で展開する美術関係のイヴェントや展示の仕事に関わります。1970年には、第1回アース・デーの活動を通じて知己となった教授が指導するペンシルヴェニア大学に入り、麻薬患者の更正施設のあったハート島の環境計画をテーマとする修士論文を提出し、以後、現在まで環境計画家として仕事をしています。環境計画を自治体に提言する際に作成する資源目録は、当該地域の様々な資源ごとに、データを地図に落とし込むものですが、近年、磯辺はこの資源目録にあたるものを拡げ、実際の大地をカンヴァスとして、壮大なスケールの美術作品として発表しています。隅田川に近い、現代美術館のガラスの外壁に過去と将来予想される川の氾濫時の水位を記号的にあらわしたものなど、美術と環境計画の二つの分野を跨いで展開する磯辺の活動は、美術の定義の拡張で捉えるのではなく、両方の分野の交差する、新しい領域として多面的なアプローチが必要です。同年代のオノ・ヨーコの美術と音楽をつなぐ作品やアクティヴィストとしての活動を考察する場合も同様です。
現代の創造は、美術をめぐる制度を批評的に主題としたり、様々な枠組みから自由に展開してきました。一方、美術館は、これらの創造も収集し、同時代の動向の全貌を捉えようとしています。創造する人と美術館のある種の緊張関係のなかで展開する活動を考察するには、それぞれの内容にふさわしいアプローチを探っていくことが必要であり、その面白さを授業で見つけていきたいと思っています。
プロフィール
東京で生まれる。早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。東京都美術館、東京都現代美術館開設準備室を経て、1995年の同館開館から2020年春まで学芸員として展覧会の企画とこれに連動したコレクションの構築に取り組む。2020年4月より本学文学学術院にて現職。専門は、近現代美術、展示表象論。共著に『マティスのロザリオ礼拝堂』(光琳社、1996)、『展示の政治学』(水声社、2009)、『ミュージアムの憂鬱』(水声社、2020)。執筆した東京都現代美術館の展覧会図録に、桂ゆき、草間彌生、オノ・ヨーコ、磯辺行久、菅木志雄の個展、テーマ展として『水辺のモダン』(2001)、『東京府美術館の時代』(2005)、『百年の編み手たち—流動する日本の近現代美術』(2019)、『ドローイングの可能性』(2020)などがある。
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