早稲田大学演劇映像学連携研究拠点の研究チーム(研究課題:「日本における近代音源資料アーカイブ-蝋管以降の特殊音源を中心として-」/代表:東京文化財研究所 無形文化遺産部・音声映像記録研究室長 飯島満)の調査により、1937年(昭和12年)8月、初来日中のヘレン・ケラーが吹込んだレコードが見つかりました。
アメリカの教育家・社会福祉事業家であるヘレン・ケラー(1880–1968)が、初めて日本を訪れたのは1937年4月中旬から8月上旬にかけて。日本滞在中、ケラーがフィルモン音帯(日本で開発されたエンドレステープ式の長時間レコード)に録音を行っていたことは、当時の証言などによって確実視されていましたが、音帯の所在はわからず、録音内容も未詳でした。
研究チームは情報収集の過程で、大阪芸術大学博物館にフィルモン音帯「トーキングブツク ヘレンケラー」が所蔵されていることを知り、収録内容を再生調査しました(早稲田大学演劇博物館がフィルモン音帯の再生器を動態保存)。その結果、ケラーが離日する直前、日本で実際に行っていた講演を一部抜粋して吹き込んだ記録であることが判明しました。
この音帯全体の録音時間は約31分で、ヘレン・ケラーの声が記録されているのは後半部分の8分程。収録はケラーの講演活動でも通訳を務めた盲目の社会事業家、岩橋武夫(1898-1954)からの質問にケラーが答え、ポリー・トンプソン女史(来日に同行したケラーの秘書)がそれを繰り返すという形で行われていました。岩橋武夫は早稲田大学在学中の1917年(大正6年)に網膜剥離で失明、早稲田中退後に関西学院大学を卒業。1927年(昭和2年)イギリスのエジンバラ大学で学位を取得し、1935年(昭和10年)には日本初の盲人福祉施設であるライトハウス会館(現在の日本ライトハウス)を大阪に設立しました。ケラーの来日実現も、岩崎武夫による招聘を受けたものであったといいます。
ヘレン・ケラーは戦後にも2度の来日を果たしているものの、戦前の音声はきわめて貴重といえます。この録音のなかで、ケラーは日本の印象や障害者に対する福祉向上の必要を述べた後、「さよなら、ありがとう」と日本語で講演を締めくくっています。ケラーの発声は必ずしも明晰とはいえず、きわめて聞き取りにくいのです。しかし、生後19箇月で視覚と聴覚を完全に失っていたことを思えば、やはりそれは驚異としか言いようがありません。
この研究チームは2009年度より、早稲田大学演劇博物館や大阪芸術大学博物館、金沢蓄音器館などが所蔵する音声資料の調査研究を行っており、今年度は演劇博物館館長(竹本幹夫教授)が拠点代表を務める演劇映像学連携研究拠点の研究チームとして活動を行っています。
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