顕彰状 メガワティ・スカルノプトゥリ・インドネシア共和国大統領

インドネシア共和国第5代大統領に選出されたメガワティ・スカルノプトゥリ女史は「建国の父」故スカルノ初代大統領の長女である。

世界第4位の人口大国インドネシアは、現在「改革」の旗印の下、急激な社会変化のさ中にある。その中で、かつてない民主化が実現する一方、深刻な経済危機さらには、国民統合をめぐる建国以来最大の困難にも直面することになった。それだけにメガワティ新大統領に対する国民の期待は、まことに大きいものがある。また、インドネシアの動向は、ASEAN諸国のみならず日本をはじめアジア太平洋地域全体に与える影響においてもはかり知れないものがあり、新大統領への国際社会からの注目と期待も益々高まっている。

メガワティ女史は、対オランダ独立戦争さ中の1947年1月23日、当時の臨時首都ジョクジャカルタに大統領スカルノを父として生まれ、父の栄光と挫折の双方を身近にみつめつつ、幼少女期を過ごした。長じるにしたがい、本学とも深い交流の歴史をもつ国立パジャジャラン大学、本学協定校である国立インドネシア大学でそれぞれ農学、心理学を修め、この間結婚生活に入るなど政治とは無縁の道を選んだ。しかしながら、1987年野党インドネシア民主党選出の国会議員に当選したことで、女史の人生は180度の転換を遂げることとなった。冷戦終結後の1990年代以降の国際的な民主化の高まりを背景に民主党党首に選出された女史は、軍部主導の抑圧的なスハルト体制からの脱却を求める広範な市民運動、学生運動の輝かしいシンボルとなっていく。とりわけ1996年6月、女史のカリスマ的影響力を恐れた政府の強制介入により党首の座を追われるという事件が起こっ たが、このことがスハルト政府批判の世論のうねりを決定的なものにした。この事件は女史を単なる抵抗のシンボルから政界の“希望の星”へと押しあげる契機となった。女史は1999年2月インドネシア闘争民主党を旗上げし、同年6月の総選挙でついに第1党に躍進させ、副大統領、そして大統領への道筋を開くことになった。イスラム的な政治文化が強いインドネシアでは「女性は大統領にふさわしからず」との声も一部に根強かったが、そうした批判をはね返し国政のトップに立ったことの意味は、世界における女性の地位向上の観点からみても意義深いことといえよう。

故スカルノ大統領は、1959年、早稲田大学に来校され、故大濱信泉総長ら教職員と懇談後、大隈講堂において2,000名の学生を前に「革命後のインドネシア」と題する熱のこもった講演を行ない満員の聴衆に多大の感銘を与えた。さらに戦後日本におけるアジア地域研究の先駆となった本学のインドネシア研究グループの新刊研究成果にも親しく触れられている。こうしたことが契機となり、本学は、1960年代初頭からインドネシア国費留学生の最も積極的な受け入れ大学の一つとなり、そのことが今日なお同国における本学の名声を高らしめている大きな理由となっている。1958年の両国間平和条約調印以降40余年間、本学の国際交流や学術研究交流においても密接な関係を築いてきたインドネシアの最高指導者メガワティ大統領は、本学から名誉博士号を授与される最初のインドネシア人である。これを機に、父君スカルノ大統領以来のインドネシアと本学の交流がさらなる進展を遂げると共に、メガワティ大統領の指導下で同国が民主国家として一層発展し、アジア太平洋地域の平和と安定のために益々重要な役割を果たすことを、本学は心から念願するものである。

ここに早稲田大学総長・理事・監事・評議員ならびに全学の教職員は一致して

メガワティ・スカルノプトゥリ大統領に

名誉博士(Doctor of Laws)の学位を贈ることを決議した。

学問の府に栄えあれ!

大学が栄誉を与えんとする者を讃えよ!

(Vivat universitas scientiarum! Laudate quem universitas honorabit! )

2001年9月29日
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WASEDA University

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