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第四回(2013年度) 早稲田大学坪内逍遙大賞選考委員会

award04_img01【委員長】
高橋源一郎(小説家)

【副委員長】
松田哲夫(編集者 元・株式会社筑摩書房専務取締役)
加藤典洋(早稲田大学教授)

【選考委員】
大川繁樹(株式会社文藝春秋文藝局第一文藝部長)
巽孝之(慶應義塾大学教授)
沼野充義(東京大学教授)
渡部直己(早稲田大学教授)

実施スケジュール

受賞者

award04_img02【大賞】:小川 洋子(おがわ・ようこ)

1962年岡山県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。88年「揚羽蝶が壊れる時」で第7回海燕新人文学賞を受賞し作家デビュー。90年「妊娠カレンダー」で第104回芥川賞受賞。主な著書に『博士の愛した数式』(04年、第55回読売文学賞、第1回本屋大賞)、『ブラフマンの埋葬』(04年、第32回泉鏡花賞受賞)、『ミーナの行進』(06年、第42回谷崎潤一郎賞)、『ことり』(13年、芸術選奨文部科学大臣賞受賞)など。

【小川洋子氏受賞理由】

小川洋子氏は芥川賞受賞作「妊娠カレンダー」から、ベストセラーとなった『博士の愛した数式』(読売文学賞)、『ことり』(芸術選奨文部科学大臣賞)に至るまで、一作ごとに新たな物語世界の地平を切り拓いてきた。その優しく無垢でありながら残酷なほど精緻で、リアルでありながら幻想的な雰囲気を漂わせる作風はいまや日本の境界を越え、多くの外国語に翻訳され、国際的にも高い評価を得ている。また映画や現代アート・漫画・絵本などの分野とのコラボレーションも多く、その作品は幅広く受容され、広範な読者に支持されている。今後さらなる活躍が期待される、坪内逍遙大賞に相応しい現代日本を代表する作家の一人である。

award04_img03【奨励賞】:小野 正嗣(おの・まさつぐ)

1970年大分県生まれ。東京大学教養学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。文学博士(パリ第8大学)。現在、明治学院大学文学部准教授。2001年「水に埋もれる墓」で第12回朝日新人文学賞受賞、02年「にぎやかな湾に背負われた船」で第15回三島由紀夫賞受賞。主な著書に『マイクロバス』(08年、芥川賞候補)、『獅子渡り鼻』(13年、芥川賞候補)、訳書にマリー・ンディアイ『ロジー・カルプ』(10年)など。

【小野正嗣氏受賞理由】

小野正嗣氏は、クレオール文学についての気鋭の研究者にして、ナイポール、グリッサンなどのすぐれた翻訳者でもある。だが、彼は何より「小説家」であり、その才覚は、「小説」の孕みうる多様性のなかに、第一級の研究、翻訳力を柔軟に呼び込む貴重な力量にかかっている。ことに『獅子渡り鼻』は、この力量を存分に窺わせるのみならず、独自の時間処理技法などの生彩を通して、日本小説の可能性を若々しく開拓した作品にほかならない。依って、奨励賞に価すると考える。

award04_img04【奨励賞】:山田 航(やまだ・わたる)

1983年北海道札幌市生まれ・在住。立命館大学法学部卒業。2008年、歌誌「かばん」に入会。09年、第55回角川短歌賞および第27回現代短歌評論賞を受賞。12年、穂村弘との共著「世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密」を刊行。同年歌集「さよならバグ・チルドレン」を刊行、北海道新聞短歌賞および現代歌人協会賞を受賞。

【山田航氏受賞理由】

山田航さんは短歌の世界に現れた超新星と言うべきでしょう。短歌は1980年前後から新しい時代、新しいモードに入りました。俵万智や穂村弘らが、その先頭を走ったことは周知の通りです。歌人としても、また、批評家としても、山田航はその後を引き継ぐ最も重大な存在になりつつあります。山田航の短歌は「新しい」だけでなく、長い間、短歌の美しさとして称揚されて来た、深い叙情性も持っています。伝統と新しさの融合は、坪内逍遙の特徴でもありました。坪内賞の奨励賞にふさわしい人物であることは疑いを入れません。

記者発表(2013年10月1日)

10月1日(火)16時から大隈会館において授賞者発表記者会見が開かれました。高橋源一郎委員長、松田哲夫副委員長、加藤典洋副委員長、渡部直己委員が出席し、多くの報道関係者が集まりました。

第四回早稲田大学坪内逍遙大賞授賞式・祝賀会(2013年11月22日)

11月22日(金)18時からリーガロイヤルホテル東京において、授賞式・祝賀会が開催されました。

【授賞式 受賞者挨拶】

【大賞】:小川 洋子(おがわ・ようこ)さん

皆さまこんばんは。小川洋子です。本日はこのように立派な賞を頂戴いたしまして、大変光栄に思っております。鎌田総長はじめ、賞の運営に関わってくださった皆さま方、そして選考委員の皆さま方に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

私が早稲田に入学しましたのは、1980年でした。その時から小説を書きたいと思っておりまして、当時の第一文学部文芸科に進学し、平岡篤頼先生にご指導いただきました。20枚くらいの短編をせっせと書いては平岡先生の研究室に持って行って読んでいただいて、先生もご迷惑だったと思うのですけど、私のような学生の未熟な作品に対してもいつも敬意を持って接してくださいました。結局私は就職試験に全て失敗しまして、田舎の岡山へ帰るということになりました。そのご報告に平岡先生のところに伺いましたら、先生が「これからどんな職業についても、どんな人生を送るにしても、小説を書くことだけはずっと続けなさい」とおっしゃってくださって、その言葉はいまでも私の支えになっております。

いま振り返りますと、小説を書き続けるという先生とのお約束を守れたんじゃないかと思って、ありがたく思っております。18歳の頃、私にとって小説を書くというのは大変難しいことでした。そしていま33年経ってもっと難しくなっています。新しい作品を書くときに自分が何を書こうとしているのか、どこへ行こうとしているのか、いつも何もわからない状態の中にあります。真っ暗闇の中を一歩一歩、恐る恐る足を踏み出すようにして一行一行書いていると、結局小説というのは何かはっきりわかっていることを伝えるために書くのではなくて、書いても書いてもわからないことのためにあるんだなということがようやく最近わかってきました。この暗闇の中でもがいている私を驚くべき忍耐力でいつも支えてくれている編集者の方に御礼申し上げたいと思います。私が平岡先生との約束を守れたのも、編集者の方々のおかげだと思います。これからも光の射さない場所をさまようというその勇気を失わずに書き続けていきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

【奨励賞】:小野 正嗣(おの・まさつぐ)さん

この度、第四回坪内逍遙大賞奨励賞をいただき、大変名誉なことだと感じております。「名誉なことだ」と申し上げました。しかし名誉だと感じるためには当然、早稲田大学について、賞にその名を冠する坪内逍遙について、ある程度の知識、何らかの接点、そしてそれらに基づく深い敬意が僕の中になければならないはずです。ですので、ここで受賞者に求められているのは、そのような前提に基づいて早稲田大学、そして坪内逍遙と、自分自身の体験の交わるところについて語りつつ謝意を申し述べることだと思われます。

ところが恥ずかしながら僕は早稲田大学とはほとんど接点がありません。ただ、これは本当の話なのですが、僕が18歳まで暮らした大分県の南部――僕のいくつかの小説の舞台のモデルとなっているところです――では、テレビで大学スポーツが中継されるとき、とりわけ早慶戦のとき、K義塾の創設者が大分県北部の出身者であったにもかかわらず、なぜか圧倒的にW大学を応援している人達が多かったように記憶しています。貴校――面接に臨む受験生のような口調ですが――の、雑多なものが入り混じり、思いもよらぬものが今にもぱっと噴出してきそうなエネルギーに満ち溢れた感じ、開放的でやや野性的、ソバージュな校風が、僕の郷里、現在は大分県の佐伯市というのですが、旧佐伯藩の沿岸地帯の「浦々」に生息するプリミティブな住民達の共感を引き寄せていたのではないか、と思うのです。あるいはひょっとしたら、K義塾の出身ではありましたが後に大隈重信の片腕となり、大隈侯が明治14年に提出した国会早期開設の議奏書を執筆したと言われる矢野龍渓が佐伯藩の出身だったことの記憶が、我々浦のプリミティブをWびいきにしたのではないかと――まあ、それはないと思いますけど。

しかし坪内逍遙となると、大学でフランス文学の教師でもある僕は、自分の学生達が日頃、彼女ら・彼らの無知に対して不寛容で抑圧的な教師を前にして感じているのと全く同じ心境に置かれることになります。というのも僕は逍遙という名を前にただひたすら困惑するばかりだからです。『小説神髄』を読んだこともなければ彼のシェイクスピア作品の翻訳をきちんと読んだこともないのです。そんな人間が、坪内逍遙の名を冠した賞に値するのかと思われる方もいるかもしれません――いますよね?

このように逍遙については、誰もが知っている程度の文学史的な知識しかないのですが、それでも僕は逍遙に対して深い敬意と、恐れ多くも親近感を抱かずにいられません。逍遙は皆さんもご存じのとおり、批評家であり、小説家であり、戯曲家であり、翻訳家であり、教師・研究者でもありました。つまり文学という広がりを構成するいくつもの領域を文字通り「逍遙」し続けた、フランス語でしたら“se promener”し続けた人でありました。文学の複数の領域を行ったり来たりしていたところに、恐れ多くも申し上げれば逍遙と僕自身との接点をかろうじて見いだせるかもしれません。まあ僕の場合ただ単に右往左往してるだけなんですけどね。

しかし本当に驚嘆すべきことなのですが、逍遙の場合は、同時代に、そしてその周囲に導き手がいないまま、おそらくほとんど自分一人の力で、評論、創作、翻訳といった文芸の諸領域を踏破していかなければならなかったのです。その姿は、逍遙する者、遊歩者というよりほとんど探検家ですよね。そしてこの探検の精神は、1つにはかの有名な早稲田大学探検部に受け継がれているかもしれない。それから僕たちにとってはさらに重要なことですが、この「探検」のエートスは、文学的な冒険・探究の場であり続けている「早稲田文学」という雑誌に、現在に至るまで脈脈と受け継がれていると思われます。

文学における探検的遊歩者・逍遙に比べると、僕などはツアー旅行参加者がいいところです。なぜなら、ここにおられる選考委員の方々のお仕事、ご著作は、僕にとっては、文学という広大な領域を歩いていく際に、折々仰ぎ見てそこから励ましを受け取る力強いガイドであり指針だったからです。ですからそのような先生方から今、奨励賞ということで、改めて、しかもこんなふうに直接「励まし」をいただいたことに深い感銘を覚えております。本当にありがとうございました。

【奨励賞】:山田 航(やまだ・わたる)さん

札幌から参りました山田航です。この度は、早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞という栄誉を与えられることになり、本当に嬉しく思います。日々の活動にご注目をいただき、ご推薦いただいた委員の先生方に深い感謝を申し上げたいと思います。今回、何よりも嬉しく思うのは私個人のことよりも短歌というけっしてメジャーとはいえない世界にスポットライトを当てていただいたことです。

思えば私は子供の頃から本を読むのが大の苦手でした。大体薦められるのが小説で、でも小説の読み方が全くわからない、どうやっても面白いと思えない。しかし、短歌なら読めた。面白く読めた。さらに言えば、現代詩も読めた。易しいと言われている娯楽小説よりも、難解といわれる現代詩の方が、はるかに自分の身体の中にすっと入ってきた。こういう経験をして自分にとっては、韻文こそが一番身体に合っている、一番自分の呼吸に近い言葉なのだということを気づくことができました。さらに言えば初めて意識的に言葉というものに向かい合うようになったのは詩でも短歌でもなく、上から読んでも下から読んでも同じ回文です。もともとそういう回文世界の住人、回文ワールドに生きているので、ちょっと違うものの考え方をします。こういうお祝いの場ではおでんを振る舞います。「つつしんでおいわい、おでんしつつ」下から読んでも「つつしんでおいわい、おでんしつつ」でございます。

こういう場に立たせていただいていますが、数年前までは、札幌の郊外の片田舎で無職のまま、もんもんと過ごす実家暮らしの男の一人でありました。その頃に短歌の面白さ、短歌を作ることの楽しさに目覚め、札幌中央図書館にある短歌コーナーの本を左から順番に全部読んでいくこと、それが人生の目標になりました。これがだめだったら自分はもう終わりだ、なぜかそう強く思いながら毎日を過ごしていました。毎日毎日変化のない、ただひたすら家にいるだけの毎日、そういう毎日の中では、のり巻きを食べて自分をなぐさめるしかありませんでした。「おきまりのまいにちに、いまのりまきを」下から読んでも「おきまりのまいにちに、いまのりまきを」でございます。

その頃に思っていたいつか自分はこのままでは終わらない、このつらい気持ちを絶対に言葉にぶつけて生き延びてやるんだ、生き抜いてやるんだ、そう思って、ひたすら言葉と向かい合ってきたのが、今この場に立っていることに結実したと思います。まさに自分は言葉で世界を変えることができたのだと思います。あの頃の涙を思い出します。「せかいをくずしたいなら、ないたしずくをいかせ」、下から読んでも「せかいをくずしたいなら、ないたしずくをいかせ」でございます。

今自分は札幌という、日本の端っこに住んでいますが、私は常にエッジに立っていたいと思います。中心ではなく周縁部、周縁であるということはもっとも鋭く尖った場所でもあるからです。文学のエッジとしての短歌、韻文、日本のエッジとしての札幌、そこから突き出していく存在でありたいと思っています。私のこの度の受賞をきっかけとして早稲田大学坪内逍遙大賞の歴史に歌人の文字が刻まれたことは日本文学の未来に光を与えてくれるものと信じています。次回以降、詩人、俳人、また別の歌人、そういった人々の名前が続いて刻まれるようになってくれることを強く強く祈っております。ありがとうございました。

【祝賀会 副総長挨拶】

橋本 周司(はしもと・しゅうじ)

橋本でございます。小川先生、小野先生、山田先生、本日は本当におめでとうございます。さきほどの授賞式の様子を拝見いたしましたが、こんなに素敵な三人を選んでいただいた審査員の皆様に心から御礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

実は、私は物語りする人というか、作家の方には非常にコンプレックスがあります。というのは、私、高校から大学の初めまで、同人誌を作っていたのですが、挫折して、今、副総長をやっているものです。ちゃんと作家をやってきた方には大変な引け目を抱いているところであります。物語りをする、短歌を含めてですが、そういうことを本当にやり通せるという素晴らしさ、私も本当はそうありたかったと思うのですが、それができなかったというのは、致し方のないところであります。

さきほど総長からのお話にもありました通り、早稲田大学は今年で創立131年目になり、150周年に向けてWaseda Vision 150という中長期ビジョンを掲げて、次の一歩を踏み出し始めたところなのですが、どうも最近の世の中は、科学技術が中心になってきて、しかも一方で科学技術が信頼できないと言われております。私は理系なのですけど、どういうことなのだという気がするんですよね。科学技術に加えて、イノベーションという言葉が流行っています。そして、日本はどうやって、イノベーションを推進して世界に出ていくのか、と言われています。それに対して、早稲田大学はどうするのだということを考えなければなりません。科学技術も非常に大切なことでありますが、一方で、「心のイノベーション」とでもいうことを、大学は片方の頭で考えなければならないと思うのです。しかし、そういうことはなかなか大きな声で言われていません。その意味でも私どもの大学で、坪内逍遙という大先達の名を冠する賞があって、このような素敵な方々に対して贈呈されているというのは、本当はもっともっと知られていいだろうと思います。今日は様々な分野からたくさんの方々にご参集いただきました。この集まりがそのきっかけになれば嬉しいことです。

実は私、何年か前に「本屋さんが薦める本」とあったので、小川先生の本を購入しました。それには数学のことが書いてあって、大変興味を持って読みました。もう一つ読みたくなって、『薬指の標本』を読んで、こういうことを書く人がいるのだと。後からよく見てみたら、早稲田の卒業生だ。やはり負けた、自分はやらなくてよかったと。まさにこういう人が、我々の身近から出てきていること、それから卒業生でなくても、そういう人を見極める眼が早稲田大学にはあるということを誇りに思います。小野先生と山田先生については、受賞のことを知ったのが遅くて、注文した本が昨日届きましたので、これから読ませていただいて、やっぱり敵わないなということをもう一度確認するのを楽しみにしております。今日は、本当におめでとうございます。そして、ありがとうございました。


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