「特集 Feature」 Vol.7-3 科学でメダルは獲れるのか!? 2020年東京オリンピックに科学で挑む (全4回配信)

運動生理学・バイオメカニクス研究者
川上泰雄(かわかみやすお)/スポーツ科学学術院 スポーツ科学部 スポーツ科学科 教授

アスリートが奇跡を起こす時、感性には何が起こっているのか?

1トップアスリートがオリンピックなどで、世界中の人々を興奮させるようなパフォーマンスを発揮する時、その運動の奇跡は肉体や精神だけでなく、その感性にも起きているのかもしれません。多くのアスリートたちが勝利の瞬間に体験するという超常的体験「ゾーン」。こうした領域は、人間の運動能力とどのように関連しているのでしょうか?今回はゾーンを研究する感性学者であり、スポーツキャスターとしての経歴を持つ関西大学人間健康学部 志岐幸子准教授を対談相手に迎え、川上泰雄教授とともに、人間の運動の奇跡に迫ります。

 

トップアスリートが出すベストパフォーマンスの鍵は“力の使い方”にあります(川上)

志岐:私は主にスポーツを中心とした各分野における「ゾーン」と「感性」について研究をしています。私たちがこれまでトップアスリートを対象として実施した調査の結果では、多くの選手たちがベストパフォーマンスを生み出したとき、「ゾーンに入った」という体験をしています。
たとえば飛び込み競技のオリンピック選手である寺内建さんは、「演技の前に階段を登るところで、自分の足跡が先に見えた」(志岐幸子「一流人たちの感性が教えてくれたゾーンの法則―至福の時を手に入れる14ヶ条」祥伝社、2012)と語っています。このようなゾーン状態をアスリートが経験しているとき、とらわれがなくなった無我の境地に至っていると考えられます。川上先生は肉体のパフォーマンスを可視化・定量化する様々な研究をされていますが、アスリートがゾーンで体験する現象をどのようにお考えでしょうか?

川上:面白いですね。人間の身体はたくさんの「筋肉」の収縮がそれを骨につなぐ「腱(けん)」と機能的にマッチすることによってパワフルな多関節運動を生み出します。いわゆるベストパフォーマンスのような「上手い運動」は、これらの組織を組み合わせたり、切り替えたりするタイミング処理の上手さによって生まれます。力の大きさだけではない、いわば“力の使い方”こそがベストパフォーマンスを引き出す鍵であるということが科学的に分かってきているのです。

 

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図1:「筋肉」の収縮がそれを骨につなぐ「腱(けん)」と機能的にマッチすることによってパワフルな多関節運動が生まれる(出典:川上康雄)

 

たとえばゴルフのスイングは、クラブを振りかぶって、振り降ろし、振り抜けるという一連の動作プログラムの中で、使う筋肉・腱が、めまぐるしく変わります。たった一瞬のタイミング処理を誤るだけで、パワーを上手く発揮できなくなるのです。だから熟練のプロゴルファーでもパフォーマンスに“波”があるのです。ベストパフォーマンスを発揮できる状態をゾーンとすれば、それはこうしたタイミング処理がうまくできている状態だと考えられます。

志岐:ゾーンでは、アスリートの感性は最適な情報処理をしていると思われますが、ゾーンに入ったアスリートは、研ぎ澄まされた感覚がある一方で、一部の感覚が鈍化していると感じることがあります。たとえば普段は見えないボールの軌跡が「白い線」や「灯り」などの形で見える一方で、聞こえているはずの周囲の歓声が耳に入ってこないといったことや、自分へのブーイングはまったく聞こえないが、勝利を得るために必要なピッチの中の声だけは認識できているといった「カクテルパーティー現象」もあります(志岐幸子「岡田武史監督と考えた『スポーツと感性』」日本経済新聞出版社、2008)。

川上:あくまで想像ですが、「ゾーン」では身体が、過去に記憶したベストパフォーマンスを実行するための準備状態になっているとも考えられます。過去にベストパフォーマンスを発揮した時の運動プログラムを再現するために、その瞬間の状況、視覚、聴覚、あるいは筋肉などからの様々な感覚入力などの諸条件を、再び身体に呼び起こしている状態と言えるのかもしれません。そうしたとき、それ以外の情報はシャットアウトするのかもしれません。プロゴルファーがゾーンに入った時は、カップが異常に大きく見えたりするそうです。いろんな感覚を研ぎ澄ませ、ベストな運動プログラムを自分の中から引き出す方法を、アスリートは体得しているのかもしれませんね。

志岐:それには無意識の行動や日常のルーティンなども含まれると考えられます。アスリートの多くは、「ゾーンに入るハウトゥ」を求めがちですが、それよりもまずは一種の美学が根幹にあることが重要です。それがあってこそ活きる方法論については、実際にゾーンに入ったトップアスリートの感性面の共通性を見出すことで、スポーツ界はもちろん、社会に還元していくことができるのではと思っています。

川上:自分のベストパフォーマンスの「記憶」を引き出すための方法論を探るのは面白い研究ですね。本当に方法論化できれば、ゾーンに入るためのトレーニングプログラムが構築できるかもしれません。私も「科学でメダルを獲る」という研究を試みていますが、お互い、2020年の東京オリンピックで何か貢献できればいいですよね。

 

先生写真

(写真)早稲田大学 川上康雄教授             (写真)関西大学 志岐幸子准教授

 

火事場の馬鹿力は、脳のリミッターを解除することで生まれます(川上)

志岐:はい、是非そうできればいいですね。その東京オリンピックに関連することだと思いますが、川上先生は、いわゆる「火事場の馬鹿力」についても、ご見解を発表されていますね。ゾーンで発揮される能力のことを「火事場の馬鹿力」という言葉で表現する人もありますが、先生のご研究の見地から、ゾーンはどのように捉えられるでしょうか?

川上:ゾーンとの関係性は正確には分かりませんが、火事場の馬鹿力は「全力を出しているつもりでも余力があるのが人間だ」ということを教えてくれます。
筋肉をコントロールしているのは神経系で、ひとつの筋肉でも何十個何百個という神経細胞が関係しています。人間は、はたらかせる神経細胞の数を増やすことで力の調節を行なっているので、この神経細胞すべてを興奮させることができれば原理的には100%の全力を出すことができます。「シャウト効果」というものをご存知ですか?

志岐:ええ、陸上競技の投擲(とうてき)種目の選手がよくやっているように、パフォーマンスの際に大声を出して力を出し切ろうとすることですね。

川上:そうです。人間は大声を出したり、意識的に興奮度を高めることで、はたらく神経細胞が増え、大きな力が出せるようになる。しかし、それでも100%興奮させることはできません。眠っている神経細胞があるのです。
そこで、電気刺激によって眠っている神経細胞を興奮させる実験を行ったところ、平均して、通常よりも力がアップすることが分かりました。これが火事場の馬鹿力を発揮した時の力なのです。

志岐:ということは、ゾーンに入る方法の一つとしては、眠っている神経細胞を興奮させる術(すべ)を見つければよいということになりますね。「火事場の馬鹿力」を出すときは、普段の脳の抑制が外れているのですよね?

川上:そうですね、抑制が完全に消失するわけではありませんが、脳で運動を司る「運動野」と呼ばれる部位の興奮レベルが上昇して、眠っている神経細胞を使っている状態です。これによって人は車を持ち上げたりできるほどの強烈な力を発揮します。逆に、普段は自分のこうした強烈な力で自らの身体を壊してしまわないように、脳がリミットをかけているのです。

火事場の馬鹿力との関係は分かりませんが、「ゾーンに入る」ということと運動には、何らかの副次的な関係性はあるかもしれませんね。運動野の興奮レベルは脳内の働きが関係し合って高まります。たとえば、「前頭前野」と呼ばれる部位の神経細胞が活動して「やる気」を起こし、それが運動野の活動を高めるというメカニズムがあります。最終的に身体を動かすのは運動野の活動ですが、それに影響を与えているのは別の部分だということです。それは前頭前野や小脳、あるいは記憶を司っている部分に蓄えられたゾーン体験そのもの、といった場合があるかもしれません。

 

ゾーンは人間の未知の可能性とその素晴らしさを教えてくれます(志岐)

志岐:ゾーン体験のお話を様々な方々からお聞きするたびに、ゾーンという見えない世界に感じる神秘性は増すばかりです。先生はご自身の研究にどのような不思議を感じておられますか?

川上:不思議ばかりですよ。たとえば超音波装置を使って人間の筋肉を測定する時も、所詮、測ることができるのはひとつの筋肉だけなのです。他の筋肉がどうなっているのかは分からない。測定の限界があるのです。実は、複雑なスポーツ動作はもちろん、歩行などの単純な動作ですらも、それに関わるたくさんの筋肉がどのようにはたらいて動きが生まれているかについては、分かっていないことばかりです。
とはいえ、動作や測定対象をうんと単純化して実験を行わなければ、論文として形にするためのデータが取れません。身体の不思議と科学的立証の間にあるジレンマには常に悩まされます。人間の、生物としての豊かな冗長性にはなかなかうまく迫れないですね。そこが不思議ですし、これからの課題です。志岐先生はどうですか?

志岐:私の場合は、これまでもゾーンに入る感性の仕組みを模式化したり、人の感性状況を数値化したりしてはいるものの、本当の意味での「感性」は、数値化や言語化ができるものではありませんから、定量化することで、むしろ本質的なことが失われて真の感性には迫れなくなる、といった矛盾が生じてしまいます。しかし、感性やゾーンの研究では、通常は意識されていない個人の深い内的世界を追究していながらも、その深さに触れれば触れるほど、広大な宇宙の仕組みや法則といった外界についても何かが見えてくる部分があるような、そんな可能性さえ感じられますから、可視化の仕方によっては、わかりやすくなる部分はあると考えています。

川上:やはり人間は、目で見たり、耳で聞いたりした以上の情報を知覚しにくいですからね。そうした感覚器に検知されない情報はたくさんあるのかもしれませんね。

志岐:そうですね。人間が本来持っている感性は、それを感じ取り活かせるものだと、私は思っています。

 

次回は最終回です。「バイオメカニクス研究で、「元気な社会」を実現する」と題して高齢化問題や川上先生の研究観について語っていただきます。

 

5差し替え

(写真)志岐准教授はかつての学び舎として、川上教授は自らの研究を前進させる場所として、ともに早稲田大学所沢キャンパスを歩く二人

 

 

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 プロフィール

プロフィール

川上泰雄(かわかみやすお)

1988年東京大学教育学部体育学・健康教育学科(体育学コース)卒業。1990年東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。1991年東京大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。1991年東京大学教養学部保健体育科 助手。1996年東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻 助手、1999年には助教授に。2003年早稲田大学スポーツ科学部 助教授。2005年早稲田大学スポーツ科学学術院教授、現在に至る。

 

主な業績
  • 2015~,川上筋腱特性開拓プロジェクト, 人間の筋腱特性とその可塑性に関する包括的研究:身体運動能力との関連性からみた効果的なトレーニング方策の確立に向けて(中核研究者課題)
  • 2012~2015,身体運動のメカニズムと適応性の解明:骨格筋・腱動態の生体計測によるアプローチ(科研費課題)
  • 2009~2011,筋肉痛の発生機序と部位特異性:筋肉痛を抑えながら筋力増強効果を高めるトレーニング(科研費課題)

その他の業績→and more

用語解説
  • MRI : 磁気共鳴画像診断装置。強力な磁気の力を利用し、体内構造物を可視化する装置。
  • モーションキャプチャー : 身体の動きを高い精度で3次元計測し、コンピュータ内で再現する技術。
リファレンス
  • Ema, R., Wakahara, T., Yanaka, T., Kanehisa, H., Kawakami, Y. Unique muscularity in cyclists’ thigh and trunk: a cross-sectional and longitudinal study. Scand. J. Med. Sci. Sports, 2015. doi: 10.1111/sms.12511.
  • Miyamoto, N., Kawakami, Y. No graduated pressure profile in compression stockings still reduces muscle fatigue. Int. J. Sports Med. 36: 220-225, 2015. doi: 10.1055/s-0034-1390495.
  • Sakaguchi, M., Shimizu, N., Yanai, T., Stefanyshyn, D., Kawakami, Y. Hip rotation angle is associated with frontal plane knee joint mechanics during running. Gait & Posture 41: 557-561, 2015. doi:10.1016/j.gaitpost.2014.12.014
  • Shishida, F., Sakaguchi, M., Sato, T., Kawakami, Y. Technical principles of Atemi-waza in the first technique of the Itsutsu-no-kata in Judo: from a viewpoint of Jujitsu-like Atemi-waza. Sport Science Research 12: 121-136, 2015.
  • Akagi, R., Iwanuma S., Hashizume, S., Kanehisa, H., Fukunaga, T., Kawakami, Y. Determination of contraction-induced changes in elbow flexor cross-sectional area for evaluating muscle size-strength relationship during contraction. J. Strength Cond. Res. 29: 1741-1747, 2015.
  • Wakahara, T., Ema, R., Miyamoto, N., Kawakami. Y. Increase in vastus lateralis aponeurosis width induced by resistance training: implications for a hypertrophic model of pennate muscle. Eur. J. Appl. Physiol. 115: 309-316, 2015.
  • Sugisaki, N., Wakahara, T., Murata, K., Miyamoto, N., Kawakami, Y., Kanehisa, H., Fukunaga, T. Influence of muscle hypertrophy on the moment arm of the triceps brachii muscle. J. Appl. Biomech. 31: 111-116, 2015. doi: 10.1123/jab.2014-0126.
対談相手プロフィール

対談相手プロフィール

志岐幸子(しき ゆきこ)
1992年早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。1994年早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程修了。2003年早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程修了、博士号(人間科学)取得。早稲田大学第一文学部非常勤講師。2008~2013年度早稲田大学オープン教育センター・2009~2013年度早稲田大学文学学術院非常勤講師。2009年関西大学文学部総合人文学科身体運動文化専修准教授。2010年関西大学人間健康学部人間健康学科スポーツと健康コース准教授、現在に至る。早稲田大学感性領域総合研究所招聘研究員。早稲田大学・大学院在学中に、五輪関連の国際スポーツ交流や国際オリンピック・アカデミー・セッションに日本代表として派遣された。1990年代はフジテレビジョン、NHK等のスポーツ番組を中心にキャスター・コメンテーターを務めた。

取材場所

取材場所

取材は所沢キャンパスにて行われました。ここには人間科学学術院スポーツ科学学術院があります。

 

 

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