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箱根を終えて―「圧倒的な個」の先へ
早稲田大学競走部 強い早稲田を作った、4年生たち―箱根駅伝を終えて―
Tue 24 Feb 26
早稲田大学競走部 強い早稲田を作った、4年生たち―箱根駅伝を終えて―
Tue 24 Feb 26
臙脂色を裏地にあしらった揃いのオーダースーツを身に纏って、大隈記念講堂の壇上に並んだのは、競走部駅伝チームの4年生たち。
駅伝主将そしてエースとしてチームの先頭を走ってきた山口智規、優しき駅伝副将の間瀬田純平、一般組(一般入試や指定校推薦等で入学した選手)から主力に上り詰めた宮岡凛太、努力を重ねて4年目にブレイクした伊藤幸太郎、そして、マネージャーという立場でチームを支えてきた主務の白石幸誠の5人だ。
普段の取材とは少し違った佇まいの中、4年間の競技生活を振り返ってくれた。
左から:白石幸誠、間瀬田純平、山口智規、伊藤幸太郎、宮岡凛太
エースで駅伝主将の山口智規
「今はスッキリしています」
箱根駅伝を終えた心境を駅伝主将の山口に問うと、こんなストレートな言葉が返ってきた。
「なかなか重いものを背負っていたので、悔しい結果で終わりましたけど、やり切った感があります」
この1年間目標にしてきた箱根駅伝総合優勝に届かなかった悔しさはもちろんある。それでも、充足感もまた大きかった。
山口智規(スポーツ科学部4年)
福島・学法石川高校出身。トラックを中心に活躍し、駅伝でも大学入学以来チームの主力を担ってきた。
4年時は駅伝主将を務め、競技面・精神面の両面でチームを牽引した。
箱根駅伝では3年連続で花の2区を担い、日本人トップの区間4位と快走。
1500mからハーフマラソンまでマルチにこなし、卒業後はSGホールディングスで競技継続し世界を目指す。
実は、山口は11月の全日本大学駅伝が終わってから耳鳴りや耳の辺りの痛みを抱え、扁桃炎の診断を受けていた。睡眠障害もあった。そんな不調も、箱根駅伝が終わってからはすっかりなくなったという。それほどの重責を担ってきたということなのだろう。
「めちゃめちゃしんどいんだろうなって思っていましたよ。ずっと。やっぱり結構背負っているものがあったと思うので」
近くで山口の奮闘ぶりを見てきた主務の白石はこう慮る。他のチームメイトも、山口のキャプテンシーを称えていた。
写真左:白石幸誠(人間科学部4年)
愛媛・八幡浜高校出身。入学時よりマネージャーを務め、チーム運営の中核として、日々の活動から大会運営までを支える。
最終学年ではマネージャーを束ねる主務として活躍。選手・スタッフ双方から信頼の厚い存在。
宮岡「本当はキャプテンをやるのではなくて、自分の走りに集中したかったと思います。それでも、この1年間、(駅伝主将を)務めてくれて、結果で、背中で示してくれた。僕たちとしては頼もしかったです」
間瀬田「スーパールーキーも入ってきて、チームをまとめていかないといけないなか、“この人に付いていきたい”って思われるように、競技面だけじゃなくて生活面も律していかないといけないのは大変だったと思う。きつかったり苦しかったりした時もあったかもしれないですけど、それを見せずにチームをまとめてくれたので、すごいなって思います」
伊藤「必ず試合で結果を出すことが求められますし、チームを引っ張らないといけない存在。自分だったら、そんなに周りに目を向けられません」
2025年12月、所沢キャンパスにて
先頭左から:山口智規、間瀬田純平
山口は、もともと福島・学法石川高時代に5000mで高校歴代3位(当時)の快記録をマークしている実力者だが、大学に入って3年目までは思うような結果を残せないことも多かった。
そんな時期を乗り越えて、今季は、駅伝主将を務めるかたわら、臙脂のエースとしても目覚ましい活躍を見せた。
6月の日本インカレは1500mと5000mに出場し、日本人で初めてこの2種目で二冠を達成した。さらに、7月の日本選手権は1500mで日本人学生歴代3位(日本学生歴代5位)となる3分38秒16の好記録をマークし2位に入った。そして、出雲駅伝では2区区間賞の快走で9人抜きの活躍。箱根駅伝では3年連続の2区で、日本人歴代4人目となる1時間5分台に突入した。
日本インカレにて(撮影:和田悟志)
箱根駅伝にて(撮影:早稲田スポーツ新聞会)
花田勝彦駅伝監督は就任以来“圧倒的な個”の育成を掲げてチームの強化に取り組んできたが、今季の山口は、まさに“圧倒的な個”を象徴する選手だった。
「圧倒的な個にならなければならない存在だったので、(圧倒的な個というフレーズは)若干プレッシャーのかかる言葉ではあったなと思います。でも、否定的なことではなくて、自分が成長するためにも大事な言葉だと思います」
山口自身も、そんな選手になろうと努力を重ねてきた。
花田 勝彦 駅伝監督
1971年京都府生まれ。1994年早稲田大学人間科学部卒業。
在学中は競走部に所属し、4年連続箱根駅伝に出場。1993年の第69回大会では4区区間賞を獲得し、総合優勝に貢献した。
卒業後は実業団のエスビー食品に進み、1996年のアトランタオリンピック(10000m)、1997年 のアテネ世界陸上マラソン、2000年のシドニーオリンピック(5000m・10000m)に出場。
2004年に引退後、上武大学准教授および駅伝部監督、GMOインターネットグループ・アスリーツ監督を経て、現在の4年生が入学した2022年に早稲田大学競走部駅伝監督に就任した。
“一般組”の2人の箱根までの距離
「“圧倒的な個”っていうのは、智規だったり、上の選手に対して向けられた言葉だったと思っていて、言ってしまえば、他人事のように捉えてしまっていたところもありました」
こんな正直な胸の内を明かしたのは宮岡だ。
山口と間瀬田がスポーツ推薦で入部したのに対して、伊藤は一般入試で、宮岡は指定校推薦で入学した、いわゆる“一般組”の選手だった。
宮岡凜太(商学部4年)
神奈川・鎌倉学園高出身。指定校推薦で入学し、いわゆる「一般組」として鍛錬を重ね、箱根駅伝には1年次よりエントリーメンバー入りした。4年次の全日本大学駅伝で三大駅伝に初出走。最後の箱根駅伝は戦力として期待されるも、怪我などの影響で出走はかなわなかった。真剣さと熱量を走りで示す、チームに欠かせない存在。
ただ、今になって振り返ってみると、こう考えることもできた。
「“圧倒的な個”の“個”は“個性の個”だったのかなとも思っています。そういう意味では、幸太郎や僕は、長い距離を走り込むことや箱根駅伝への思いが、個としての強さだったのかなと思います。間瀬田の場合は、早稲田に対しての愛だったのかもしれない。白石は日本一のマネージャーとしての仕事だったのかなと思います。それぞれが持っている圧倒的な個性の“個”が集まった結果、僕はこのチームでよかったなって思うことができました」
宮岡が言うように、4年生がそれぞれ、自身の持ち場で役割を果たそうと努め、彼らは1つのチームになっていった。
「4年目は、優勝という1つの目標を目指してみんなでやってきて、すごくコミュニケーションが増えました。その中で各々の想いを知ることができて、4年目は1つになれたなと、ものすごく感じています。本当に良い学年だったんじゃないかなと思います」
駅伝副将を担った間瀬田もこう断言することができた。
箱根駅伝エントリーメンバーの取材会にて
左から:花田勝彦駅伝監督、山口智規、宮岡凛太、伊藤幸太郎、間瀬田純平、白石幸誠
実を言うと、入学したばかりの頃、スポーツ推薦組と一般組との間には大きな壁があったという。
宮岡「最初に入学した時は、推薦組と言われる人たちとの差をすごく感じていて、高い壁のように思っていました」
伊藤「僕は競技力では一番下のほうで、他の3人と一緒に練習することもなかったですし、そんな立場からなかなか意見もできなかった。そういった競技力から来る距離感みたいなものは当時感じていました」
一般組の二人は当時をこう振り返る。
伊藤幸太郎(スポーツ科学部4年)
埼玉・春日部高校出身。宮岡と同じく一般組ながら、誰よりも走り、その情熱と姿勢でチームを支えてきた。箱根駅伝にすべてを懸け、ひたむきな努力を積み重ねてきたランナー。
4年次、箱根駅伝の選考レースとして位置づけられている上尾シティハーフにて早大トップでゴールし、初めての箱根駅伝エントリーを果たした。
「山口と間瀬田と僕の3人は、1年生の時から(選抜メンバーで行う)合宿に行っていたので、それ以外の子たちが『山口と間瀬田は、怖いからなかなか喋れない』みたいなことを言っていたと聞いていました」
白石がこう振り返るように、1年目から主力を担っていた山口と間瀬田、そして入学時からマネージャーの白石は、他の同期とは別行動になることが多かった。2人が他の同期から畏怖の念を抱かれるようになったのも仕方のないことだったのかもしれない。
もちろん一般組も、推薦組の活躍を黙って見ていたわけではない。
「箱根駅伝を走りたいという夢があるので、日々こつこつとやるところは負けちゃいけない。そこを勝つつもりでやらないと、推薦組には追いつけないっていう思いでやっていました」と宮岡が言うように、地道な努力を重ねて、宮岡と伊藤は着実に力を付けていった。
「2人は夏合宿とかでチームで一番長く走っていました。そういう姿を見て、箱根という舞台がどれだけ大きいものかっていうのは後輩たちにも伝わったと思いますし、箱根に向けてどんな取り組みをしていかなければならないのか姿勢を示してくれた。彼らは大きな存在だったと思います」
駅伝主将の山口がこう振り返るように、彼らは、チームに欠かせない戦力になったばかりか、後輩たちにとっては模範になる選手たちだった。無限の努力ができる彼らの才もまた、圧倒的な個と言っていい。
最後の箱根駅伝には、山口、間瀬田、伊藤、宮岡はそろってエントリーメンバーに名前を連ねた。この1年間の活躍からは順当な流れだった。
箱根駅伝エントリーメンバー(2025年12月所沢キャンパスにて)
しかし、宮岡は11月中旬の上尾シティハーフマラソンのレース中に右膝裏の腱鞘炎になってしまう。伊藤もまた、上尾ハーフでは好走したものの、その1週間後に仙骨を疲労骨折する事態に見舞われた。
「箱根に向けて一番大事だと思っていた上尾ハーフを走り終わった瞬間は、すごい高揚感がありました。その1週間後に練習で疲労骨折してしまった時は、折れた瞬間が分かったんですけど、その時のことも一生忘れられません。今でも悪夢みたいな感じで夢に見たりします」
伊藤にとってはようやく掴みかけたチャンス。ケガをした後も、最後まで諦めずに回復に努めたが、ついには叶わなかった。
宮岡もまたしかり。人一倍重ねてきた努力を、夢の舞台にぶつけることができなかった。
「僕も幸太郎も、これだけ練習をやってきても、やっぱり箱根っていう舞台には届かなかった。一般組は箱根を最終目標にしてる子たちが多いです。彼らには夢に対してがむしゃらに頑張ってほしいですけど、こうやって直前にケガしたら意味がないので、パンクしないように、自分たちのことをうまく反面教師にしてほしいです。そこの塩梅ってすごく難しいですけどね。箱根に出てチームを優勝させるっていう目標を達成するためには、死ぬ気で時間や労力をかけなくちゃいけないんだよっていうのは伝えたいですね」
宮岡は、後輩たちに向けて自分たちの経験を口にしていた。
本気で取り組んできた結果が総合4位
絶好調だった間瀬田も、古傷の左足アキレス腱を痛め、走れるかどうかの瀬戸際に立たされていた。なんとか出走に漕ぎ着けたものの、3年連続で担ってきた1区ではなく、最後の箱根は当日変更で7区に起用された。
箱根駅伝7区を走る間瀬田
(写真提供:早稲田スポーツ新聞会)
間瀬田には最後の箱根駅伝でやってみたかったことがあった。それは腕に書いたメッセージと共に箱根路を駆け抜けることだ。
右腕に記す言葉は『I love 早稲田』と決めており、付き添いをしてくれた後輩の浅川京平マネージャーに、そう記すよう託した。
「そしたら、浅川が字を間違えたんです。早稲田の“稲”を間瀬田の“瀬”って書いちゃって(笑)。横にいた江本(亘)コーチが『私がやる』ってペンを取り上げて、無理やり“稲”に直してくれました」
間瀬田純平(スポーツ科学部4年)
佐賀・鳥栖工業高校出身。箱根駅伝では1年次から3年連続1区。冷静なレース運びでスターターを務めてきた。最後の箱根駅伝では初めて7区を任された。後輩からの人望が厚く、駅伝副将として雰囲気づくりにも心を配り、山口と共にチームをまとめてきた。
そんな裏話がありながらも、『I love 早稲田』の文字と共に小田原から平塚までの21.3kmを間瀬田は走った。途中で痛みが出てしまい、結果は区間12位。間瀬田の力からすれば、決して快走とは言い難かった。それでも、えもいわれぬ幸福感があった。
「早稲田を背負って走るのも箱根が最後だったので、走りは良くなかったけど、本当に4年間箱根を走れて幸せだったなと思います」
そう言い切ることができた。
往路を2位で終えた早稲田大学は、復路で逆転優勝を狙ったものの、結局届かず2年連続の総合4位に終わった。
「大手町で元輔(瀬間、2年)を迎え入れた時の光景っていうのは忘れられません。もちろん悔しかったですけど、最後までやりきったというか、自分を褒めてあげたいような気持ちになりました」
伊藤と共にアンカーの瀬間を迎えた山口の胸の内には、こんな心情が走っていた。もちろん心の底から満足できる結果ではなかったが、山口は胸を張った。
箱根駅伝ゴールにて(写真:和田悟志)
左から、山口智規、瀬間元輔、伊藤幸太郎
2日間、運営管理車の中から仲間たちの背中を見守ってきた白石も万感の思いだった。
「花田さんと一緒に運営管理車を下りて、大手町のみんなが待機している陣地に行った時の、みんなの顔が、僕は忘れられません。花田さんも泣いてて、僕もものすごい泣いちゃったんですけど。緊張が一気に解けたっていうのもありますし、やっと終わったっていうのもありました。宮岡や幸太郎がものすごい泣いていて、これだけ懸けてやってくれたんだなっていうのを感じましたし。走った後輩たちも『すいません』って泣きながら言ってきたりしました。あの雰囲気っていうか、あの景色っていうのは一生忘れられないかなって思います」
それぞれが本気で取り組んできたからこそ、戦いを終えた後の景色は、その場にいた者たちにとって、生涯忘れられないものになった。
インタビュー動画はこちら
