早稲田大学名誉博士 受領者スピーチ(日本語版)

ウルリッヒ・ズィーバー

犯罪および犯罪抑制の変容

グローバル化したリスク社会および情報社会におけるパラダイムシフト

早稲田大学入学式(2019年9月21日)

1.はじめに

田中総長、西原元総長、副総長、理事、学部長をはじめとした早稲田大学の代表の皆様、学生およびゲストの皆様

本日の入学式に参列し、早稲田大学の名誉博士号を授与して頂けることは大変光栄なことです。私は40年余りにもわたり共同研究してきた日本の学界を敬愛しておりまして、そのような日本の学界から授与して頂くこの栄誉は私にとって特別なものなのです。日本との共同研究は、忘れがたい友人である故西田教授と山口教授とともに始まりました。お二人は、1970年代にサイバー犯罪に関する私の博士論文を日本語に翻訳し、公刊して下さいました。

早稲田大学は世界をリードするグローバルな大学の1つであり、そのような大学から名誉博士号を授与して頂き、まことに光栄です。卓越した研究プロジェクトにおいて30年にもわたり早稲田大学と、とりわけ元総長西原教授、理事甲斐教授、田口教授、および他の同僚の皆様と一緒に研究できるという恩恵に与かれたことを誇りに思います。

早稲田大学の名誉博士号の授与および長きにわたる我々の協力関係につき、田中総長および同僚の皆様に厚く御礼申し上げます。私にとって大変喜ばしいことでしたし、今後もそうであり続けます。なんと御礼を申し上げてよいか、感謝の言葉もございません。

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学生の皆様

早稲田大学の素晴らしさを身をもって経験している私から、学生の皆様がご自身のキャリアへ向けて前途有望なスタートを切れたことをお祝い申し上げます。今日から、皆様は、将来の専門的な職業に備えて高名な早稲田大学で学んでいくだけではありません。世界をリードする研究機関の1つである早稲田大学の優れた研究の恩恵を得ることもできるのです。研究に目を向けることが皆様にとって極めて重要であるのは、今日の知見が急速に変化するものだからです。もはやこれまでの学識を「学ぶ」だけでは十分ではありません。皆様は、これに加えて、明日の課題を解決するために将来を見据えた研究の方法を修得する必要があります。科学がかつてないほどに発展している現代において、このことは極めて重要なものです。私が述べる今日の知見の変容は、早稲田大学が研究・教育の対象としている伝統的な、および先進的な学問分野の多くで見受けられるものです。

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以下では、そうした変容と研究の魅力を私自身の専門分野である刑法を例に紹介したいと思います。刑法は、伝統に基づき、変化に乏しく、無味乾燥な法律条文に依拠するものと思われることが多々あります。しかし、そうではないのです。

皆様の大半は法律家ではないとのことですので、まず、刑法とは何であるのかを簡単に説明させて頂きます。刑法は、犯罪に関する主要なルールを含んでいます。犯罪に対処する際の刑法の基本理念は、犯罪を行ったことに対して責任のある者に厳しい危害を与え、倫理的非難を加えるというものです。刑法は、過去の犯罪に対して刑罰を科すことによって、当該犯罪者および一般の人々が将来の犯罪を行うことを抑止しようとするのです。しかしながら、刑法の目的は、責任のある犯罪者を訴追することだけではありません。無実の国民の権利が侵害されないよう、刑法上の特別な保障を用いることによって国民を保護することも目的としています。それゆえ、安全と自由の均衡こそが刑法原理の中で最も重要な課題の1つとなるのです。

現在、刑法のこうした伝統的領域において、重要な転換が生じています。私の研究は、これらの変化が我々の社会における技術的、経済的、および社会的変化によってもたらされているとの仮説に立脚しています。すなわち(1)グローバル化、(2)リスク社会、(3)情報社会という変化です。以下では、これら3つの根本的な変化により犯罪および刑法がどのように転換しているのか、そしてより良い法のあり方を考えるにあたって、こうした変化に関する基本的な知見が如何に用いられるのかを紹介したいと思います。

2.グローバル化と国家を越えて有効な刑法の必要性

1)今日の社会における第1の主要な変化、すなわちグローバル化の発展から始めることにします。グローバル化は、(私は今この講堂で多くの学生の皆様に会っているわけですが)学生を含む外国人との相互交流の発展だけではありません。また、物品、サービス、およびデータの国境を越えた交易に限定されるわけでもありません。

2)グローバル化によって、国家を越えた犯罪も増えています。このことは、例えば、複数の国家にわたって活動する犯罪者が行う国際的な経済犯罪の複雑さに見て取ることができます。更に、とりわけ薬物、兵器、あるいは臓器売買を扱うグローバルな犯罪市場が活発になっていることからも明らかになります。

3)こうしたグローバルな犯罪を捜査するには、複数の国家における様々な国内機関が同時に行動することを必要とし、また、国外において証拠を収集し、犯罪者を確保するメカニズムを設けなければなりません。しかし、そうすると、我々の伝統的な刑法体系に大きな問題をもたらすことになります。つまり、伝統的な刑法体系は国内のものであって、そこでの判断はその国の領域にしか妥当しないのです。例えば、ドイツでの承認手続を経ることなしにドイツが統治する領域で日本の逮捕令状を執行することはできません。これは一種の矛盾を生じさせます。犯罪者は世界中を自由に移動できるのに、裁判は国家による承認手続なしに国境を越えることができないのです。そこでの手続には様々な形態がありますが、それらが解決しようとする根本問題は本質的には同じです。国内の刑法は国によって様々ですが、承認手続は国内法秩序の整合性を保護するために用いられるものです。人権に関する我々の基準に反する国外の手続を承認するとなると、我々の基準に反することになってしまいます。それを避けたいがために、我々は、そうした手続を承認する前に国外の判断をチェックするわけです。

4)したがって、こうした承認手続を避ける唯一の方法は、とりわけ犯罪化および刑法による保障の範囲に関して各国の国内刑法を調和させることです。こうした考えに基づき、EUは、現在、人権に関して類似の基準を設け、ヨーロッパ諸国における刑事司法体系の相互信頼を強化することによって、刑事事件での円滑な協力を可能にしています。これは、国外の判断をチェックすることなく「直接的に承認する」ための基礎を成すものです。いわゆる「ヨーロッパ逮捕令状」がその好例です。ヨーロッパ逮捕令状は、国境を越えた犯罪の捜査における遅延を大幅に短縮することになりました。

こうした分析の帰結は明白です。グローバル化の発展に伴い、我々は、更なる比較法研究、各国刑法の更なる国際的な調和、国際協力のための手続の改善、および分野によっては超国家的な刑法を必要とするのです。以上のことから、ある重大な変化が刑法に生じることになります。すなわち、長きにわたり国内領域に関するものであった刑法は、ますます国際的なものになっていくのです。それゆえ、早稲田大学の法学研究者の皆様が比較法研究に多大なる貢献をなさってきたことは卓見であったと思われるのです。

3.リスク社会と安全法という新たな構造

1)今日の社会における第2の主要な変化は、「リスク社会」の現出にあります。客観的なレベルにおいて、このキャッチフレーズは、犯罪の新たなリスクを含む新しい脅威の現出を述べるものです。そのようなリスクは、テロリズムに見て取ることができます。他の例としては、アメリカの銀行であったリーマン・ブラザーズの改ざんによって明らかになったような、金融市場におけるリスクがあります。人々の意識の問題として、これらのリスクは、犯罪に対する恐怖を増大させることになります。それゆえ、人々は、過去の犯罪に対して回顧的な刑罰を科すことだけでなく、より将来を志向した安全およびリスクを予防する処分を求めます。

2)このことは、犯罪抑制におけるパラダイムシフトをもたらしました。今日、多くの領域において、刑事政策はもはや責任と刑罰という伝統的な問題によってではなく、リスクと危険という概念によって支配されているのです。

パラダイムのこうした変化は、刑法の内外で見受けられます。刑法内においては、多くの国が、テロ攻撃の兵器製造のために化学物質を収集する、あるいはテロリストとしての訓練を受けるために国外へ行くといった準備的な行為を犯罪とするケースが増えています。しかし、中立的でしかない行為が犯罪的な意図と結びつくことだけでそもそも犯罪とされるべきなのか、そしてそうだとしてもどの程度犯罪とされるべきなのかは疑わしいところです。

刑法外においては、犯罪抑制のために警察法、行政刑法、諜報活動法、あるいは更に(テロおよび薬物との「戦争」としての)戦争法といった刑法以外の予防的法制度の運用が増えています。その結果として、刑法は、安全法という新たな法構造の一部となっているのです。この新しい安全法は極めて効果的です。しかし、こうした新たな予防的法制度の多くは、啓蒙時代以降に我々が刑法において築いてきた人権保障の手段を欠いています。

3)以上のことから、法政策にとっては次のように言うことができます。リスク社会という変化に鑑みると、我々は犯罪抑制のための新たな予防システムを用いるべきです。しかしながら、安全法という新たな法構造の発展は、「国民の自由」という新たな法構造によって補完されなければならないのです。

4.情報社会と新たな情報法の必要性

グローバル化およびリスク社会によってもたらされた犯罪抑制の諸問題は、第3の変化、すなわち情報、情報テクノロジー、および――将来的には――人工知能が優位な役割を果たす情報社会の現出と結びつくことになります。

1)まず、情報社会における犯罪の特殊なグローバル化について紹介します。犯罪者は、インターネットによって、適切な保護のない数百万のコンピュータに世界中からアクセスでき、また、数ミリ秒の間に他の大陸にある価値の高い対象を――自宅の部屋という安全なところから――操作することができます。犯罪者は、(TORのような)匿名のネットワーク、仮想専用線(VPN)、ダークネット・サービス、および暗号化を利用することによって自身の所在地を隠すことさえでき、警察はグローバルなサイバースペースのどこを捜査すればよいのか、あるいは司法共助をどの国に求めるべきなのかすら分かりません。

2)サイバースペースにおけるこうしたグローバル化は、IT環境におけるリスク社会という新しい特殊な脅威を伴います。

a)サイバースペースにおけるこのようなリスク増大の第1の理由は、我々の情報社会がITシステムのセキュリティに依存している点にあります。我々は、最も重要な資産および手続をコンピュータ・システムに委ねています。例えば、送金システム、クレジットカード決済、企業秘密、航空交通管制、病院のコンピュータ、および軍事防衛システムなどは、すべてコンピュータによって管理されており、――安全性の低いことも多い――データ回線を通じてアクセス可能なものです。基盤となるこうしたインフラへの攻撃は、壊滅的な結果をもたらしうるものです。原子力発電所へのハッキングをイメージしてみて下さい。

b)情報社会におけるリスク増大の第2の理由は、情報がその「所有者」に与える能力にあります。これは、例えばボートネットによる情報の大量流通に見受けられるだけではありません。更に興味深いのは、個人に関するマス・データの収集・分析によって得られる能力です。データの所有者はそれによって人々の行動を予測し、影響を及ぼすことが可能になるのです。

マス・データ分析が持つ金銭的利益のポテンシャルは、人々が以前にアクセスしたウェブサイトに基づいて対象を絞っているオンライン広告を見れば分かります。

データに基づくこうした能力は、もし個人に関するマス・データが我々の民主主義体制の核を成す選挙に影響を及ぼすために利用されるとしたら、とりわけ危険なものとなります。アメリカでは、トランプ氏の当選直後において、ケンブリッジ・アナリティカに関してそうした問題が生じました。今日、厳選した投票者に対して選挙広告を郵送することだけが選挙に影響を及ぼしうる手段なのではありません。例えば、ある特定の投票者が移民に批判的であることを知っていれば、――たとえ真実であったとしても――不法移民に関する大量のニュースを彼に送ることができます。彼は、結局、移民によりもたらされる重大なリスクを確信し、それに応じて投票することでしょう。

プライバシー保護の問題は、人工知能が発展するにつれ著しく増大することになりましょう。既に、分析に利用できる個人データの蓄積は――人工知能があろうとなかろうと――膨大なものです。情報源としては、ほんの数例を挙げるだけでも、電話のデータ、メール内容の分析、銀行やクレジットカードのデータ、公共の場でのビデオ監視による旅行記録などがあります。例えば、アイフォンの音声アシスタントを利用すると、電話の近くでなされる会話のすべてが場合によっては広告目的または次の選挙のために記録・分析されるのです。

3)情報社会におけるこれらの新しい課題に対応するために、我々は、まず、グローバル化およびリスク社会における新たな脅威に関してこれまでに築いてきた一般的な解決方法に取り組むことができます。

更に、我々は、情報および情報テクノロジーという特殊な問題のための解決方法を別途必要とします。多くの分野において、新しい「情報法」が要求されることになります。ここでは例を2つ紹介します。無形的なデータおよび情報の性質は、我々の法体系が前世紀において念頭に置いていた伝統的な有形物とは大きく異なります。また、プライバシー侵害に対する同意を明確にし、とりわけ遵守させるには、インターネット上での個人データの適切な保護を保障するための特別な手段に依るべきでしょう。

かくして、どうすればこうした問題に取り組むことができ、こうした新たな課題に対する最善の解決法を見出しうるのかが重大な問いとなります。

私の答えは次の通りです。すなわち、基礎的な問題に取り組む研究を行うべきであり、それこそが実務でも応用可能となる、というものです。ドイツのエンジニアであるロバート・ボッシュは、かつて、「良い理論ほど実践的なものはない」と述べておりました。同様に、ノーベル賞受賞者であるマックス・プランクも、「学問は実務に先行する」と主張したわけです。

5.おわりに

以上のことから、とりわけ今日ここに参列している学生の皆様にはお願いしたいことがあります。皆様の勉学を今日までの知識を覚えることで終わらせないで下さい。勉学の後半段階では新たな知識を得るための研究方法を修得し、学問的研究の魅力を発見して下さい。今日皆様が入学した早稲田大学は、そうしたアプローチをするための理想的な基盤を提供してくれます。早稲田大学が示してくれる新たな視野への旅路が実り多きものとなりますよう願っています。

どうもありがとうございました。

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