Art and Architecture School早稲田大学 芸術学校

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「空洞3部作」再考 1/4

ディテール・モデルと建築のアンチ・ユートピア

鈴木了二(2007年度紀要AARRより)

2000年から2007年にかけて3つの住宅が竣工した。物質試行42(池田山の住宅)、物質試行45(神宮前の住宅),物質試行48(西麻布の住宅)、これらをまとめて「空洞3部作」としたのは、敷地もクライアントも異なる住宅の連作を通して「空洞」が、一貫して大きな関心事であったからである。

「空洞」は、わたくしのなかで「空間」とは異なるものであり、対抗概念としてある。どちらも三次元の広がりという意味では似ている。しかし「空間」という言葉には、なにもない単なる広がりという意味を超えて、歴史的な意味が多重に含まれているのではないだろうか。大きな理由のひとつに、19世紀から20世紀にいたる建築分析のなかで、「空間」概念の占める割合が大きかったことがあげられる。しかも20世紀の初頭では、「空間」の探求が、来るべきユートピアの希求と連動していたことが、「空間」に対してより強い価値感を担わせる結果になった。近代に登場した建築家たちは、わずかの例外を除いて、なんらかの点でユートピア主義者といっても過言ではない。「全体」はどのように変革されなければならないのか。かつてはポジティヴな意味を持ちえたユートピアが、近代において全体性という悪夢に転倒する。皮肉なことに、「全体主義」は「ユートピア主義」のどこかに萌芽を持つようだ。

「空間」概念を通過せずに建築を考えることは、近代建築の成果を、その核心をなすユートピア性から離脱させることを意味する。わたくしが自分の仕事を「物質試行」と名付けてきたのも、「空間」という言葉をなるべく使わずに建築を記述したいと考えてきたからだ。

したがって、わたくしにとって「空洞」は「物質」と対をなすものとして現れた。物質試行35である「空地・空洞・空隙」(1994年)が、「空洞」の性質を考えようとした最初の試みであった。

即物的な「物質」性に対して、「空洞」もまた「なにもない」ことをただ即物的に示すものである。たとえば物質に穿たれて生じた「空け」。あるいは、複数の物質どうしの「離れ」。そんな「空洞」の「なにもなさ」を、色づけしたり意味付けしたりするのではなく、その「空け」や「離れ」を生起させる物質の在り方から建築に近づこうとしてきた、そんな試みが「物質試行」であったとも言える。

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