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若い研究領域だからこそ、道教学は多くの新発見が期待できる刺激に満ちた分野 【哲学分野】森由利亜教授

若い研究領域だからこそ、道教学は多くの新発見が期待できる刺激に満ちた分野 【哲学分野】森由利亜教授
Posted
Mon, 20 Apr 2026

 

歴史の浅い道教研究のハードルを低くしていきたい

私は中国の道教を研究しています。道教は、儒教・仏教とならんで中国の倫理的伝統に生命を与える水源のひとつともいうべきもので、沢山の神々を想定する世界観を擁する、極めて宗教色の強い伝統です。道教のなかでも特に研究が進んでいるのは、宗教としての道教が大きな潮流を形成する後漢から隋唐期の道教であり、もしくは中国宗教の変革期とされる宋・元代の道教です。ところが、私の専門は、十七世紀中葉から二十世紀初頭に至る、清代を中心とする、かなり新しい時代の道教にかんする研究をしています。むしろ、現代の中国宗教へとつながる要素を胚胎した道教の研究ということができます。清代の道教研究は、国際的には最近ようやく盛んになってきましたが、自分が研究を始めた頃は、ほとんどまともに研究対象として認められていないようなものだったので、だからこそ興味をもったということがあります。

早稲田大学文学学術院の東洋哲学コースに在籍していますが、東洋哲学コース(昔は東洋哲学専攻)には、津田左右吉の弟子であり、日本道教学会という世界で最初の道教研究を行う学術団体の発起人の一人である福井康順、さらに楠山春樹、福井文雅、小林正美といった錚々たる道教研究の先駆者がおられました。道教研究自体はマイナーな学問といわざるを得ない点がありますが、早稲田大学は、世界における道教研究の先駆的な中心のひとつです。かつては、京都大学や筑波大学にも道教の専門家がおられましたが、いまは皆さん退官なさって、コンスタントに歴代道教の研究室を擁する大学は、いまや早稲田と、現在横手裕先生がおられる東京大学くらいといってよいかもしれません。

大学院では、二つの授業を担当しており、いずれも道教の基礎的な宗教文献の読解を行っています。一つは、六朝時代に成立した道教の聖典のなかの中核を構成する、『霊宝経』と呼ばれる経典群から、主要な典籍を選んで翻訳するものです。人間には読むことのできない謎めいたお札(符)から宇宙が発生するというユニークな宇宙生成の物語を根底に据える経典です。その宇宙をつかさどる神々に対して行う儀礼、儀礼を実践することでなされる罪のあがない、終末の世界における人々の救済、救済と不死の獲得のために必要な方術などについての解説などがおりこまれた宗教文献です。道教の基礎中の基礎ともいえるもので、これを読んでいます。

もう一つは近世の内丹道のテキストです。内丹というのは、人の身体の中に潜在する不死性を、瞑想法を軸とした身心の鍛錬によって開花させる身心技法です。身体内で行われるにもかかわらず、煉丹術の用語や比喩を使うことに特徴があり、それゆえ内丹法と呼ばれます。ちょっと乱暴に単純化して言えば、すぐに気化して消えてしまう「汞」(水銀・みずがね)を精神性になぞらえ、その水銀を逃さないように獲補する「鉛」を身体性になぞらえて、身体の気を錬りながら純粋無垢な心を蒸発させずに、不死なる成分へと結晶化させるイメージ・トレーニングということになります。ファンタジーが好きな人なら、興味をもってもらえそうな世界観です。そういう内丹法の根本聖典のひとつに張伯端(987-1082)の編んだ『悟真篇』という書物がありますが、現在はそれを伝統的な注や疏などとあわせて丁寧に解読・翻訳しています。

道教は研究の歴史が浅く、日本語で翻訳された道教経典は極めて少ないのです。特に、学部生が道教をテーマに卒論を書きたい場合は、翻訳がないことがネックになります。この分野は欧米で比較的発達しており、英語の翻訳の方が進んでいるといえます。日本語の翻訳も出して、道教研究入門のハードルを低くすることが喫緊の課題です。

 

 

批判的に言及されるイメージの強い道教は、知られていないことばかり

専門分野を研究する魅力のひとつは、“認知されていないものを認知してもらうこと”にあると思います。道教は儒教、仏教と並んで中国の三教の一つと言われていますが、私なりの言い方では、中国における“倫理的な伝統の三つの流れ”として捉え得るものだと思います。 倫理というのは、超自然的なエージェントに託した宗教的で、想像力の飛躍をテコにするようなナラティブを動員することもあれば、論理的・哲学的なナラティブを動員することもあります。政治的なナラティブもありますね。それらのうち、儒教や仏教は長らく研究が蓄積・継承されていますが、道教は今世紀に入ってようやく研究が始まったばかりであり、研究の歴史が浅いです。また、道教は儒教や仏教から批判的に言及されることが多いので、儒教や仏教を主体に中国の宗教や思想をとらえると、ネガティブな道教のイメージばかりが突出してしまうのが現状です。近現代の日本やアジアの研究者には、そういう近代以前からあった道教批判の雰囲気を今に至るまで持ち続けている人も、ちょっと前まではあったように感じます。道教を宗教として低級とか劣っていると見なしたり、あるいは迷信として扱うような傾向です。

しかし、道教は中国の伝統的な文化、生活、倫理の歴史の中で、重要な規範を提供し続けてきました。特に、罪の概念=生きていることによって生じる罪深さについての自覚、を粘り強く掘り下げた宗教であることはいくら強調してもしすぎることはありません。これは伝統中国の倫理観においては、儒教と相互補完的に機能します。儒教では亡くなった祖先の霊魂(「鬼」)はひたすら尊敬されるべきものとされますが、道教と仏教では、亡くなった人々に問題、罪深さがあると捉え、その罪深い存在を救済することが重要なテーマとなります。

 

 

仏教との違いということで言うと、仏教が世界を諸行無常とか一切皆苦とかいったように、人々が常識的にとらえる世界を根底から否定的、一面かなり悲観的に見つめ直すのに対して、道教は、確かに人間の過剰な欲望によるさまざまな営みを否定的にとらえる一方で、この世界全体、世界のなかで生成する生命力のようなものについてはむしろ全肯定します。世界は気でできていると考えられ、本来の気には罪のけがれとは無縁の、清らかなものとされます。また、本来の気の世界のなかで游び楽しむといった、生命の基本に対する楽観性は仏教との大きな違いといえます。

儒教とも仏教とも異なる道教独自の点として、道教では、道教誕生以前から中国の宗教的な想像力のなかで培われてきた仙人を非常に重視するということが挙げられます。仙人とは不老不死の存在で、古代においては、羽根の生えた羽人として、キリスト教の天使とも共通点のある姿で描かれ、人が神となったものとして理解されるのが基本です。ただ、中国の伝統において、仙人は誰もが自由に語ることのできる存在であり、必ずしも倫理的存在とは限りません。しかし、道教という宗教は、仙人の不死性を倫理的な高みの象徴として借用するのです。道教において、死と病は罪の結果として理解され、それに対して不死は罪の汚れ無き状態として理解されます。道教の外部における仙人のイメージには、こういう想定は必須とは言えません。また、道教における仙人とは善行と修養の実践によってめざすべきものとされ、基本的には、高度な戒律の実践や、慈善行為を重視します。それによって、罪多き生活から離脱して罪のない永遠の生命の獲得に成功した者が仙人となる、と考えられているわけです。儒教をはじめ、伝統中国では、人は死ぬと鬼神(きしん・おにがみ)という霊的存在になるとされますが、道教の信徒は、道教のイニシエーションを受けたり、あるいは生前に慈善活動や修行をしていたことにより、亡くなっても鬼神とはならず、ふたたび人として生まれて修行を続けたり、あるいは仙人となって天上世界で暮らしたりすることができると信じられています。それが道教徒の標準的な不老不死で、別にこの世でずっと生きているというわけでは勿論ありません。

ところが、古来多くの人々は、そのような、道教が理想とする仙人像を知ってか知らずか、それを一般の中国社会に流通する仙人像と結びつけます。厳しい戒律や、善への希求から離れてしまえば、不老不死というのは、むしろとにかく人々の好奇心を刺激するのが目的ともいえるようなナラティブになることが多く、けっこうろくでもないものとして語られたり形象化されもします。道教とは、そういう、なにかいかがわしい術を行う者の教えであるというレッテル貼りが行われることがあるわけです。また、確かに世間の人々や皇帝たちのなかに、倫理的な生活とはかけはなれた仙人を求める営みを行った者がいて、道教批判の恰好の対象となる事例を世間に提供しつづけたという事情もあるでしょう。とはいえ、いかなる宗教においても、理想と現実は異なるもので、理想からすれば腐敗したと言わざるを得ない宗教職能者や信徒たちが、その宗教の評判を落とすようなことをするというのはむしろ世の常で、別に道教だけがひどかったというわけではないはずです。いずれにせよ、ある宗教を理解しようと思えば、少なくともその宗教の理念的な目標や理想がいかなるものであるかを把握することは不可欠です。道教については、そういう前向きな態度で理解しようという人々が、なかなか学者の言論空間にあらわれてこなかったという状況があったといえるでしょう。

 

 

新しい時代の道教研究の魅力

先ほどもお話ししたように、私が自分の研究として探求しているのは、清代から近代に近い、けっこう新しい時代の道教です。そのなかでも、これまで特に重点的に扱ってきたのは、専門的な道教の宗教職能者というよりも、在俗の知識人の道教です。つまり、基本的に儒教を実践する官僚や士大夫といった、俗世間で普通に生活する人々が、道教の修行者としての深い自覚をもって、彼らなりの道教を追求するという状況を集中的に研究してきました。ここには、隋唐期まで、道士という専門的な宗教職能者が排他的(イクスクルーシブ)に行う実践が、後の時代になると、一般社会の中で広く行われるようになってきた状況にかんする研究であるともいえる一面があるのです。例えば、先に言及した、内丹法という道教の瞑想法は、清代には広範な士大夫たちを中心に、一般社会の人士たちによって実践されています。このような状況や、それに関わる知識人の残した文献を研究することで、道教が中国の伝統社会における倫理規範として不可欠の要素になっている状況を浮き彫りにしていきたい、そういう関心をもって研究をしています。それによって、伝統中国の倫理思想史全体を描きかえてみたい。道教を不可欠の一部とした中国倫理思想史という視点を提示していきたい、というのが、私にとっての重要な研究目標ということになります。

大学院生のみなさんには、これまで知られてこないことを深掘りして明らかにしてゆくことの魅力を味わってほしいです。一見、小さくてマイナーに見えることでも、視野の持ちようによって、それは非常に大きな図式の変更につながり得るものです。細かく地道な研究をしながら、なるべく広く全体的かつ普遍的な事象をとらえる視点を併せ持つことがとても大事かと思います。

早稲田大学の東洋哲学コースは、仏教・道教・儒教、さらには神道を、一つの専攻内で専門的に掘り下げて研究することができるので、アジアの宗教史を塗り替えるような重要な研究を発表する方が出てくることが期待されます。そういう野心的な研究を志す方に、ぜひ東洋哲学の門を敲き、いっしょにアジアの思想を探求し、できればこれまでの観点を塗り替えてゆく創造的な作業にたずさわって欲しいと思います。

 

早稲田大学文学学術院教授
森 由利亜(もり・ゆりあ)

早稲田大学 文学学術院 教授。博士(文学)。専門領域は、中国道教思想史。2024年より、日本道教学会会長。2003年11月には、日本道教学会賞受賞。

(2026年4月作成)