文学研究科長 垣内 景子
AIの驚異的進化によって、人間の知的営みや創造的行為の価値が問い直されている今、人文科学分野の大学院において学問・研究に志すことにいったいどれだけの意味があるのでしょうか。研究者が膨大な時間を費やして書き上げるものよりもはるかに優れた論文を、いずれAIが瞬時に生み出すのかもしれません。しかし、AIには決して奪うことのできないものがあります。それは学問・研究をすることの楽しさです。研究の具体的な成果だけを問題にするのであれば、AIはいずれ人間の研究を葬り去るでしょう。しかし、研究者みずからが実感する楽しさだけは、どれだけAIが発達しても、私たちから奪うことはできないものです。そして、そうした楽しさを実感として知っている人材こそが、これからの時代において必要とされるのではないでしょうか。
研究者自身が感じる楽しさに学問・研究の価値を見出すというのは、研究者の独りよがりや自己満足にすぎないと言われるかもしれません。しかしながら、本当の楽しさを知っている人しか、人を楽しくさせ、社会をより良く楽しいものにすることはできないのではないでしょうか。
私が専門としている儒教の『論語』には次のような孔子の言葉があります。「古の学者は己の為にし、今の学者は人の為にす」。この言葉は、一見すると昔の学者は「己の為」すなわち自己満足や利己主義のために学び、今の学者は「人の為」すなわち世のため人のために役立つことを目指して学ぶ、という意味で昔に比べて今の学者を讃えているように見えます。しかし、孔子の言わんとするところは正反対で、昔の学者は己自身の人としての向上のために学び、今の学者は人からどのように評価されるかのために学ぶということで、昔の学者の学び方こそが学問の本質であることを示しているのです。孔子のいう「己の為」の学問には、学者自身がみずからをより良き存在へと成長させていくこと、そしてその先にこそ社会に有益な人材となることが見通されているのでした。
学問・研究は楽しいことです。しかし、みずからの知的好奇心を満足させるだけにとどまらない学問・研究の真の楽しさは、むしろ地道な苦労や他者との対話を通じてこそ感じられるものであり、さらに言えば自分が知っている楽しさを社会において他者と共有すること以上の喜びはないはずです。こうした楽しさや喜びという実感だけは、人類がAIに対抗できるものなのであり、学問・研究の価値ではないでしょうか。
早稲田大学大学院文学研究科では、それぞれの分野の一流の教員陣と意欲あふれる仲間たちが日々それぞれの研究に取り組んでいます。また様々な学際的研究や海外をも含めた知的交流を可能にするプログラムも充実しています。早稲田大学大学院文学研究科で私たちと一緒に、学問・研究の真の楽しさを追求し分かち合いましょう。