サペーレ・アウデ。Dare to be wise. 賢明になることを懼れるな。この言葉はもともと古代ローマの詩人ホラティウス(BC65-BC8)(『書簡詩』1巻2-40)に由来しますが[1]、18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カント(1724-1804)が『啓蒙とは何か』で引用していることで広く知られています。彼はこの句を次のように言い換えています。”Sapere aude! Habe Mut, dich deines eigenen Verstandes zu bedienen!.”「サペーレ・アウデ! 君自身の考える力を用いる勇気を持て!」[2]。
私たちは日々多くの「大人」、あるいは「専門家」と称する人々に取り囲まれて生活しています。自分で考えなくとも、難しい問題は「専門家」たちが考えてくれる――気候変動のことも、広がる貧富の差のことも、諸国家・地域で絶え間なく起きている争いのことも――そのように私たちは惰性的に思考を停止させていないでしょうか。もしかすると、自らがいかに生きるべきかということさえ、「大人」や「専門家」に考えてもらい、それに従えばよいと信じている人もいるかもしれません。しかし、カントはホラティウスの言葉、サペーレ・アウデ!を引きながら、自分の考える力を用いる勇気を持て、と呼びかけています。それが未成年の状態、未熟な状態から脱するということなのです。何かを目のあたりにして、本当にこれでよいのだろうか、何かおかしいのではないか、いつも専門家任せでよいのだろうか、そのように思うことができたなら、すでにして私たちは、他の人のものではない自らの思考能力を用いています。自らの考える力を用いることは、誰からも禁止されえないことです。私たちは、自らの力で考えてもよいのです。門外漢は黙っていろ、と非難する権利は誰にもありません。
そもそも、それぞれの学問領域の中に安住せず、専門の「外」で考えることは、学際的な教養を身につけるための不可欠の条件です。考えることは、言葉を用いて問いを理解可能にするよう私たちを促します。それは取りも直さず、他の人々にも――どのような人々にも――理解され共有される形で考えを形作ることでもあります。それは他者からの批判を受け入れることも可能にします。サペーレ・アウデ!早稲田大学国際教養学部は、この言葉を学部の標語に採用します。
[1] Horace, H. Rushton Fairclough (tr.), Satires, Epistles, Ars Poetica, London : Heinemann, The Loeb Classical Library, [1926] 1961, p. 264; Horace, François Villeneuve (tr.), Épitres, Paris : Les Belles Lettres, 1955, p. 47.
[2] Immanuel Kant, „Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?“ In: Berlinische Monatsschrift, 1784, H. 12, S. 481-494, hier S. 481. In: Deutsches Textarchiv <https://www.deutschestextarchiv.de/kant_a ufklaerung_1784/17>; Immanuel Kant, Kritik der reinen Vernunft, Kants gesammelte Schriften, herausgegeben von der Königlich Preußischen Akademie der Wissenschaften, Bd. VIII, Berlin/Leipzig: Gruyter, 1923, S. 35.