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Vol.7「宝泉寺」
-早稲田を一番近くで見守るお寺-

「宝泉寺」

南門のすぐ傍にある「天台宗 宝泉寺」を訪ねた。早稲田大学に最も近いお寺でありながら、通り過ぎてしまい、訪問したことがなかった。今回、ご住職の大塚さんにお話を伺った。

南門通りから見た入口。この道を進めば宝泉寺だ

いつも南門通りを歩いていますが、「宝泉寺」には初めて参りました。お寺のご紹介をお願いします。
「宝泉寺は西暦810年頃の草創と伝えられます。また平将門の乱(941年頃)を平定した藤原秀郷の草創とも伝えられます。そのどちらをみても千年以上の歴史があります。戦国時代などは荒廃したようですが、江戸時代には、本堂、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁して、隆盛を極めていました。毘沙門堂には藤原秀郷の念持仏の毘沙門天が安置されていたことで、勝負事にご利益がある、と有名だったようです。」

本堂内の正面には、薬師如来

歴史がありますね。
「はい。江戸時代の火事や、大正時代の関東大震災、第2次大戦の空襲や火災により、木造建築は消失してしまいました。戦後になって、檀家の皆様らのご協力により再建されていきます。正式名称は、『天台宗禅英山了心院 宝泉寺』です。本尊は、薬師如来です。現世利益の仏様で、病気平癒、健康祈願、家内安全、学業成就、縁結びと、この世のあらゆる願いを叶えてくださる仏様です。」
*以下の画像は本堂内部を360度見ることができます。[BY THETA 360.biz]

ずっと昔から早稲田大学を見守る

*以下の画像は、寺の敷地を360度見ることができます。8号館、9号館も見えます。[BY THETA 360.biz]

早稲田大学の8号館、9号館と接していますね。早稲田大学との関わりも教えてください。
「江戸時代まで、この地域は、寺社、屋敷、田んぼが広がっていました。現在の早稲田キャンパスの多くの部分は、かつて宝泉寺の寺領だったようです。1882年に東京専門学校が創立され、その後、早稲田大学として発展されました。宝泉寺は、早稲田大学のお隣にあります。戦後は、早稲田大学のキャンパスが拡張されることになり、宝泉寺は墓地の一部を移動したという経緯があります。」

江戸の人々の憩いの場

「江戸名所図会」の「高田」の図。1846年、国立国会図書館デジタルライブラリー

宝泉寺の隣には、水稲荷神社があった。境内には、池があり、ホトトギスが鳴き、梅や桜の名所であり、江戸の人々の憩いの場だった。庭師名人の高田藤四郎が、1779年、最古にして最大、江戸で一番と言われた富士塚「高田富士」をつくった。富士山から、何度も岩を持ってきては、積み上げた。当時、誰でも富士参拝ができる場所として、江戸時代から昭和の戦前まで富士講(富士山信仰)のメッカとなっていた。藤四郎のお墓は、現在も宝泉寺にある。

東京専門学校の校舎奥には、森があった。 「東京専門学校全景(早稲田田園より正門・校舎を望む)」1890年(明治23年)、大学史資料センター

明治時代には、校舎の前に水田が網目模様のように広がり、校舎の奥には背の高い樹木が拡がっていた。また、1932年(昭和7年)の航空写真、『学苑全景』を見てほしい。南門上空からの撮影。現在の8号館、9号館、10号館前は、森のようだ。ここには写っていないが、水稲荷神社は早稲田通りの現在の第3西門まで長くつながっていた。現在の第3西門は、水稲荷神社の参道入口だったのだ。早稲田キャンパスには、かつて森があり、宝泉寺、水稲荷神社の地であった。なお、江戸時代までは、宝泉寺が別当寺をしていた。
*別当とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。

左側手前は、森のよう。右側には、大隈講堂。左側奥は、戸塚球場。「早稲田大学全景(航空写真)」、1932年(昭和7年)、大学史資料センター

昔から、人が集まる戸塚

戦後、早稲田大学が発展し、教室・研究室が必要となり、キャンパス拡張が計画される。1963年(昭和38年)、「水稲荷神社」は、早稲田大学と土地交換をして、現在の甘泉園に移転された。「高田富士」も移転した大工事であった。その名残として、現在、第3西門に向かう階段付近には今でも「富塚跡」が残っている。なお、早稲田大学の住所「戸塚」は、この周辺に塚があったことに由来すると言われている。早稲田大学の周辺地域は、地形的にも牛込台地と目白大地に挟まれた低い土地となっている。かつて、このあたりまで海が入りこみ、人が集まっていた。集落が営まれ、古墳も多く、早稲田には、昔から人が集まる歴史がある。

江戸で一番と言われた「高田富士」。写真中央のあたり、岩に腰かけて、休んでいる人がいる。1909年(明治42年)、大学史資料センター

現在も「富塚跡」は、9号館と第3西門の間にある。2020年。

宝泉寺も、早稲田大学と土地交換をされたのですね?
「はい。昭和38年に、早稲田大学と土地交換を行いました。宝泉寺の墓地は2つに分かれていましたが、檀家の話では、そのひとつは高台のようになっていて、大隈銅像を見下ろすような高さだったようです。宝泉寺は、土地交換で2か所の墓地を1つにまとめることができましたし、早稲田大学もキャンパスが使いやすくなったと聞いています。」

当時の図面によると、現8号館の法学部事務所の辺りに、宝泉寺の墓地があった。つまり、大隈銅像のすぐ近くまで墓地があったのだ。当時のご住職、檀家、地域のご協力やご理解があって、土地交換を行うことができ、早稲田大学の発展に繋がっている。なお、当時の早稲田大学総長は、大濱信泉第7代総長。偶然にも、名前に「泉」の文字があり、宝泉寺と縁があるように思える。

大隈銅像の背中の向こう側には、宝泉寺や水稲荷神社、高田富士があった。2020年。

江戸時代からの梵鐘が響き渡る

立派な「梵鐘」がありますね。
「これは、正徳元年(1711年)に鋳造されたものです。鋳物の技術的にも、歴史的にも価値が高く貴重なものとして、新宿区登録有形文化財にも指定されています。第2次大戦時に接収されなかったのが幸いです。宝泉寺創建からの梵鐘鋳造などの歴史も記されています。ぜひ細かいところまでご覧になってください。大晦日には、除夜の鐘として、早稲田の街に江戸時代と変わらぬ鐘の音が響き渡ります。」

梵鐘には寺の歴史が描かれている

ご住職は、何代目にあたるのでしょうか。どのようなお仕事をなさっているのでしょうか?
「宝泉寺の住職は、戦国時代からは名前が残っていまして、そこから数えると私は21代目にあたります。また、明治時代に住職となった曾祖父から、祖父、父と、私が世襲しています。天台宗は厳格な宗派ですが、明治時代からは僧侶も結婚することが可能となり、世襲も可能となりました。毎日、お勤め、仏道を行い、檀家とお付き合いもありますし、季節の法事もあります。もちろん葬儀も行います。また、従来より、毎朝の勤行をオンライン配信に取り組んでいましたが、今年はコロナのために、安全性、利便性を感じることになりました。宝泉寺の情報をお伝えすることで身近に感じていただければと思います。」

ご住職は、動画配信にも取り組んでいる

ご住職は、お休みはありますか?
「住職とは、読んで字のごとく、まさに住職ですから、基本的には、この地に住み、地域の皆様との関わりを大切にすることが住職の使命です。特に、決まったお休みはありません。時間も比較的ありますし、地域住民や早大生のみなさんと交流すること、人と会うことは喜びでもあります。子供が小学生の頃は地域の戸塚第一小学PTA会長をさせていただいたこともあります。趣味は、読書ぐらいですが、先代がいますので、子供たちが小さい頃は、家族旅行もできましたので、ありがたいです。」

お寺は、地域密着型の交流の場

早大生とは、どのような活動をされたのでしょうか?
「例えば、『早稲田てらこや』として、運スタ(早稲田祭運営スタッフ)の学生には、地域の子どもたちと遊んでもらったり勉強を教えてもらったり、地域清掃を行ったりしたことがあります。まっちわーく、珈琲研究会と活動したことがあります。また、早大生が持ち込んだご相談や企画を応援する形で、南門通りの駐車スペースを提供することもあります。基本的には、早大生のやる気、企画次第です。今後も積極的な早大生には協力したいと思います。」

体育各部と『勝守り』

「体育各部のみなさんとも交流があります。スキー部の倉田監督(当時)と部員のみなさんがお越しになり、『勝守り』を持って、試合に臨んでいらっしゃいました。また、レスリング部の太田監督(当時)や部員さんとは、ワセダクラブの活動でも交流がありまして、『勝守り』をお渡ししました。早大生のみなさん、すばらしい。優秀ですね。」

早稲田大学スキー部の倉田秀道監督(当時)とスキー部部員は、シーズン前に宝泉寺を訪れ、勝利を願う願掛けをしてもらい、全員がWの勝守りを帯同して試合に臨んだとのこと。なお、スキー部は、男女ともにたびたび大学選手権で優勝しているほか、荻原健司氏、渡部暁斗選手をはじめ、冬季オリンピック・パラリンピック日本代表選手を多数輩出。記憶に新しいのは、2018年平昌パラリンピックで、スキー部の村岡桃佳選手がチェアスキーで金メダルを含む5つのメダルを獲得した。2020年度は、創部100周年にあたる。また、レスリング部も、男女選手が各階級で活躍しており、女子50キログラム級の須崎優衣選手は世界選手権で優勝するなど、日の丸をつけて世界と戦っている。

『勝守り』は、Wのデザインですね。
「以前より、合格祈願、学業成就を希望されるご要望をいただいていましたので、私が10年ほど前からこのお守りを始めました。『W』の上に『勝』と記した『勝ち守』を身に着けることで、自分を信じて勉強する切っ掛けとしていただけるよう、自分の能力を大いに発揮できるように、祈願しています。早稲田大学や付属系属校の受験生にも好評いただいています。毎年、早稲田大学に合格された方から、笑顔で合格のご報告をいただくこともあり、大変嬉しく思います。また、残念ながら、早稲田大学と縁がなかったとしても、一生懸命に取り組んだことは間違いありません。導かれた道が自分の道だと信じて進んでいけば、その方は幸せになれると思います。」

「W」の上に「勝」の文字

最後に、早大生へのメッセージをお願いいたします。

「早稲田大学、早稲田の街は、仏に守られている聖地です。仏は皆さんを必ず護ってくださります。そして仏は自分自身です。自分の心、仏を信じ自信をもって、希望と夢を捨てず諦めずがんばりましょう!早大生の皆さんが世界のリーダーになるよう期待しております。天台宗の基本精神は『己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり』。全てのものに、感謝です。皆さんのご活躍とコロナウイルス終息を心よりご祈念いたします。合掌」

宝泉寺は、平安時代から令和に至るまでずっとこの地に構え、早稲田大学をずっと見守ってきた。住職の大塚さんは、今日も地域住民や早大生の平安を願い、見守っている。

【寺名】天台宗禅英山了心院 寶泉寺
【住所】東京都新宿区西早稲田1-1-2
【TEL】03-3203-8383
【URL】http://www.waseda-housenji.or.jp/

宣言「ワセメシ、ワセマチは、早稲田文化である」

早稲田大学のキャンパス周辺は、早大生や教職員、校友、街の方々が交流する交差点であり、たくさんの出会いがあります。みなさんには、馴染みの食堂やお気に入りのカフェがあることでしょう。早稲田文化ラボ編集部は、早大生の青春の舞台である早稲田大学の町(ワセマチ)も、飲食店(ワセメシ)も大切な「早稲田文化」のひとつだと考えています。

新型コロナウイルス禍で、早大生がいないワセマチ。多くの飲食店が大きなダメージを受けています。早稲田文化であるワセメシ、ワセマチを応援したい。このコーナーでは、キャンパス周辺地域の飲食店を中心に紹介していきます。まだ通学できていない1年生に参考にしてもらえたら…。上級生が来校時になじみの店に立ち寄ってくれたら…。校友のみなさんもきっとワセメシ、ワセマチを応援してくれる…。そのような願いを込めて、ワセメシ、ワセマチ情報をお届けします。

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