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紺碧の空と早大野球部の足跡をたどる

NHK放映中の連続テレビ小説『エール』で先週土曜日から始まった「紺碧の空」再放送ウィーク。今日ついに「紺碧の空」が完成し大団円。応援部が歌う場面で、再度目頭が熱くなった方も多いのではないでしょうか。
この「紺碧の空」はドラマでも語られていたとおり、早慶野球戦で連敗を続ける早稲田大学野球部を憂いた応援部が、慶應連勝の原動力と目した応援歌「若き血」[1927年(昭和2年)発表]に対抗するため歌詞を学内公募し、選ばれた住治男氏の歌詞に古関裕而氏が作曲、1931年(昭和6年)春の早慶戦でデビューを飾ったものです。
この応援歌は野球部と応援席を奮い立たせ、早慶野球戦を勝利に導いたばかりで無く、この評判は一躍全国に広まりました。「紺碧の空」は第六応援歌として発表されましたが、その後不動の第一応援歌となり、今なお熱く歌い継がれています。
早稲田キャンパス大隈記念講堂隣の大隈会館の前には、1976年(昭和51年)に「紺碧の空」の歌碑が設置されました。これは曲発表から45年を記念したもので、誰でもその碑をご覧になることができます。

ところで、早慶戦は野球に限らず様々なスポーツや学問でも繰り広げられる伝統の一戦ですが、その起源はやはり早慶野球戦に遡ります。早稲田大学野球部は、1901年(明治34年)に初代部長の安部磯雄の元で本格的に始動(当時はまだ早稲田大学前身の東京専門学校)しましたが、1903年(明治36年)に早稲田大学野球部が慶應義塾野球部に「挑戦状」を送り、同年11月21日に対戦という形で始まったものです。この時は早大が惜敗(9対11)していますが、創部2年で1888年(明治21年)創部の由緒を持つ慶應野球部に善戦だったというのは言うまでもありません。
その後も野球部は、1905年(明治38年)に大学の運動部として日本最初の米国遠征を行う等積極的な活動を行い、1919年(大正8年)から専任監督を務めた飛田忠順(穂洲)の元で猛練習を重ねた結果、1925年(大正14年)の東京六大学野球初の秋季リーグ戦を優勝で飾るなど、黄金期を迎えることになります。
現在、総合学術情報センター(中央図書館・国際会議場)がある場所は、1987年(昭和62年)まで安部球場として日本の球史に重要な役割を果たしました。その広場には安部磯雄と飛田忠順(穂洲)の銅像が設置(東伏見キャンパスの硬式野球場横にも設置されています)され、その功績を称えていますが、早稲田スポーツミュージアム(現在コロナウイルス感染拡大防止のため休館中)の「早稲田スポーツの栄光」エリアには、飛田忠順のユニフォームとグローブが展示されています。

早稲田大学は、「キャンパスがミュージアム」を標榜しており、キャンパス内には銅像、絵画、石碑など芸術作品が多数設置されています。コロナウイルス感染拡大防止のため、キャンパス内の見学もままならない状況ですが、文化推進部では、キャンパス内の見所などを今後も色々な映像でご紹介していきたいと思います。

総合学術情報センター広場にある安部磯雄と飛田忠順(穂洲)の銅像。360度映像でご覧ください。

参考資料:応援歌ものがたり(1996年、早稲田ウィークリー 第783号)、安部磯雄と早稲田大学野球部(2015年、早稲田ウィークリーコラム)、初期の早慶野球戦(2018年、早稲田ウィークリーコラム)

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