王貞治氏は1940年5月20日、東京都墨田区に生まれた。1956年早稲田実業学校高等部に入学し、在学中に4度の甲子園出場を果たした。ことに1957年春の第29回選抜高等学校野球大会では、投手として出場し、早稲田実業学校高等部初の全国優勝に多大な貢献をしている。

 1959年東京読売巨人軍に入団し、4年目の1962年、本学校友である荒川博打撃コーチと、二人三脚の猛練習と試行錯誤の末、一本足打法を完成させ、この年に本塁打王および打点王のタイトルを獲得した。変則打法のため、長期のスランプに幾度となく襲われながらも、その都度克服し、1980年に現役を引退するまでの22年間で三冠王2回、最優秀選手賞9回、首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回、ベストナイン18回等、数々の輝かしい記録を残し、巨人軍の連続9回日本一に貢献した。  特に本塁打は1977年にハンク・アーロン氏の持つ755本の世界記録を塗り替え、通算では868本を放ち、そのホームラン世界記録は未だ破られていない。現役引退後は、巨人軍を1981年から3年間は助監督として、また1984年から5年間は監督として率い、1987年にはリーグ優勝を果たした。1995年からは、福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)監督に就任し、2008年に引退するまで2度の日本シリーズ優勝、3度のリーグ優勝を飾っている。

さらに2006年3月に開催された「WBC 第1回ワールド・ベースボール・クラッシック世界大会」において、国内外で活躍するプロ選手から構成される日本代表チームの監督を務め、日本を初代チャンピオンへと導いた。この優勝は日本の野球が世界のトップレベルにあることを改めて認識させる出来事で、日本国民に大いなる勇気と感動を与えた。

他方、王貞治氏は長年、次世代を担う青少年の育成とスポーツ振興にも尽力しており、1990年からはハンク・アーロン氏とともに提唱して始めた世界少年野球大会を主宰し、少年野球の世界的な指導・普及活動を展開するとともに、福岡ソフトバンクホークスの「HAWKS九州元気プロジェクト」においても、多彩な活動を行ってきた。そして2009年には外務省から野球特別大使を委嘱され、さらなる国際的貢献を行っている。

本学においても、スポーツ科学部主催「アイク生原&ピーター・オマリー記念スポーツマネジメント講座」における講演をはじめとして、幾度かにわたり本学学生や校友等に対して、貴重な経験や卓抜した知見を提供いただいている。 こうした野球選手及び監督として偉大な記録を残すとともに、野球を通じての国際親善や青少年の健全育成に貢献した一連の功績に対して、1977年には我が国初の国民栄誉賞を受賞し、1994年には野球殿堂入りの栄誉が与えられた。さらに、2010年には文化功労者として表彰されている。また、1998年に早稲田実業学校が校賓の称号を贈呈し、2000年には早稲田大学校友会が推薦校友としてお迎えしている。

この度、早稲田大学はこれまで野球界にとどまらず広く社会に貢献し、そして早稲田大学への功績と献身が特に顕著である王貞治氏を、早稲田大学スポーツ功労者として表彰し、その名誉を永く讃えるものである。

2011年4月1日

早稲田大学

 

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