2022年度入学式祝辞 是枝 裕和 様

祝辞 是枝 裕和 様

映画監督、本学理工学術院教授
決して、今の社会に順応するだけの、器用さを手に入れるだけのために人と会ったり本を読んだり、この大学に通わないでほしい。あなた方のエネルギーだけが、この世界を変えることが出来るのだから。私たち大人の敵になることが、世界を半歩先へ更新していく原動力になるはずです。良い敵になって下さい。

私は昭和56年に今はその呼び名は無くなりましたが、早稲田大学第一文学部。一文に入学しました。今からちょうど40年前になります。
そして5年ほど前から、理工学術院で、教授という偉い名前で講義をいくつか受け持って、是枝研究室という部屋までいただいております。
その縁もあって、母校である早稲田大学の学生たちに入学式や卒業式で今回のような祝辞を、と、何度かお誘いいただいていたのですが、自分が当時、入学式も卒業式も参加していない。せっかく授業が休みになっても野球の早慶戦は一度も観戦せず、ラグビーの早明戦は明治の応援席で観戦した、と、いう極めて母校愛の無い大学生活を送ったもので、こんな人間がおめでとうを言う資格があるはずがない、とずっと倫理的な理由でずっとお断りをしてきた次第です。ただ最近は年齢のせいか、この「母校」という文字や響きにちょっと魅かれるようになってきておりまして、お正月の駅伝などたまたまチャンネルを合わせてしまうととにかくえんじのユニフォームを捜してしまうくらいには愛情が芽生えて来てまして。今回、流石に喜んでというわけではありませんが、断りきれずにお引き受けした次第です。ただ2月3月とずっと撮影をしていたものですっかりこの式のことを忘れていてというか、考えないようにしていて、つい先日頭のサイズを聞かれまして、急に緊張と後悔で…いよいよ、自分もあの四角い帽子を被るのか、と。リモートにならないかな、とか、不謹慎なことも考えていましたが、まあ、どうせ参加するなら、こうしてリアルに皆さんとこの場を共有できた方がいいに決まっていますので、今日ここに来られて大変光栄に思っております。普段はこういうスピーチは、事前には原稿を書かずに、その場の成り行きや、前の方のスピーチ内容を受けて場当たり的に喋るのですが、今回は翻訳の作業があるのでアドリブは厳禁と言われておりまして、そう言われると尚更原稿には無いことを喋りたくなるのですが、ちょっと我慢します。

さて。
お祝いを述べる前にしばらく個人的な話をさせていただきます。
ちょっと我慢してお聞きください。
私は群れるということが嫌いでした。
きっと昔からでは無いはずなのですが、一年浪人して、大学に入学する前後、皆さんくらいの年齢から特にその傾向が強くなりました。サークルの新歓にもいくつか顔をだしたのですが、どこも、ここじゃない、という感想で。例えば、映画サークルでは、上映会の会場にいた先輩が恐らく監督なんだと思いますが、なんだかあまりに不遜で、まあ、もちろん作品はつまらなかったんですが、こんなものしか作れないくせにその態度のでかさはなんだ、と、憤りを感じまして、やめました。
陶芸サークルにも行きました。初めてろくろを回したら、とても気持ちがよくて、土に触れるのが。自分の指先に集中した意識が、乱れると途端に土が崩れるんですよね。やったことのある人はわかると思いますが。この、精神のあり様が肉体を通して、土という物体にすぐ表れるのが面白かったんです。正直お手本に茶碗を作ってくれた先輩のものよりはるかに出来が良くて、いや、本当に。もしかしたら自分には陶芸の才能があるのではないか。ここなら入ってやってもいいかな、と不遜にも思ったのですが、嫉妬の目で僕の作った茶碗を見ていた先輩が、免許の無い一年なんて合宿に連れて行く意味がないと、急に言い出して。ろくろを回すのと車の免許と何の関係があるのだろうと思いましたが、口には出さずに手だけ洗ってコソコソ帰りました。
そんなわけで、1年の留年を含めて5年間、まともには、サークルには入りませんでした。授業にもほとんど出ませんでした。大袈裟なことを言うな、と思われるかもしれませんが、当時は本当に、出なくても単位はくれたんです。今は時代も変わってそんなわけにはいかないでしょうけど。文学部に来るのはスロープの脇にあった食堂で150円のカレーを食べる時だけ。
今何の縁もなかった理工学部で週に1、2回教壇にたつようになって5年になりますが、圧倒的に今の方が大学にいる時間は長いです。
ちなみに、僕の講義は、ガイドブックによれば、ラクタンという、楽に単位が取れる授業に分類されているらしいです。今の学生は皆、まじめですね。出席率すごいです。もちろん悪いことじゃないですよ。でも、他にもっと面白いことないのかなとか思ったりします。

高校の時に担任だった国語の遠藤先生という方がいまして。遠藤誠司さん。
まあ、つまらなくて授業が。ご自身も自覚があったらしく、僕の授業より面白いと思うことがあったら、そちらを優先していただいてかまいません。と言われました。プライドは無いのか、と思って。わざと、授業中に太宰治の小説とかこれ見よがしに読んだりしました。
おかげさまで将来の夢は小説家になどと思うようになったのですから、これは遠藤先生の授業がつまらなかったおかげです。皮肉ではないです。個人面談の時に、私の授業はつまらないですか?と聞かれて、はい、つまらないです、と、言いました。
失礼な高校生ですね。こう言う態度は、あんまりお勧めはしません。で、どこがつまらないですか?と聞かれて、先生は自分の意見を言いませんね。何を生徒が答えても、そう言う考え方もありますね、と。
何故自分はこう思うと話さないのですか?
そう聞いたら、自分の考えを押しつけたくないんです、と。
逃げだ、それは、と、当時の自分は思いました。
ただ、まあ、自分が映画を作ったり文章を書いたりするようになってみると、作品というのは無限な解釈に開かれている。優れていればいるほどそうだ。と言うことに気がつきまして、
で、卒業して、10年後くらいでしょうか。遠藤先生に手紙を書きました。僕が間違ってました、と。返信が来まして、そこに短く僕の作ったテレビドキュメンタリーの感想と、今、中里介山の研究をしていますなどという近況が記されていて、そこからしばらくそんな文通が始まりまして、今では遠藤先生が、私の理想の先生像です。

大学時代に話を戻すとですね、友人は、2名しか顔が浮かびません。
では、寂しかったか辛かったかと言われると全くそんなことはありませんでした。大学の講義が…ごめんなさい自分には遠藤先生並みに面白くなかったんです。でも、そのおかげで映画と出会うことが出来ました。

だから、この大学にいる4年間、5年間の人もいるかも知れないけど…その時間は何か主体的に学ぼうとすることをあなたたちが見つける為の時間だと思って下さい。それが先生たちの講義の中にあるならそれはお互いに幸せなことだけど、個人的には僕自身が、みなさんにとっての遠藤先生のような存在でも全然かまわないと思っています。

早稲田の一限の授業は当時確か朝8時20分開始で、当時清瀬というまあ電車とバスを乗り継いで朝だと1時間半くらいかかるところに住んでいたので基本遅刻する。遅刻してしばしば締め出され、早稲田の街を彷徨うことになって、映画館に吸い込まれました。今のような綺麗なシネコンではありません。
早稲田松竹のような、名画座です。ビデオや、配信などと言う便利なものはまだなかったので、あちこち通って映画を観ました。高田馬場周辺だけで今の松竹に加えて、駅前にパレス、駅の向こうのスーパーの地下にパール座という、名前には似つかわしくないトイレの匂いのする映画館でした。そして、何より、ACTミニシアター。ここは年会費を一万円払うと毎日朝から晩までいられたので通いました。そのうちもう高田馬場に辿り着く前に池袋の文芸坐で映画を観るようになって、ますます足は遠のきました。10代の終わりから20歳にかけて、そこで出会った映画たちが今の自分を形成しています。職業にしようなどとはおもっていませんでしたが、自分の進路を漠然と小説家から映画に舵を大きく切りました。幸いにもそれが仕事になりましたが、もしなっていなくてもとにかく何かに没頭した経験は無駄ではなかったと思いますよ。自ら発見し、主体的に学ぶ姿勢からしか、何も身になる知識、教養は身につかない。その意味では、映画館が私の大学でした。これもですから、遠藤先生と同様、大学の授業が面白くなかったからなのです。つまり、人生なんて何がプラスでマイナスかその時には全くわからないということです。

だから、今の皆さんの価値基準に照らして、役に立つか立たないか。で時間を捉えるのはやめたほうがいい。そんなことで物の価値は決まらない。むしろテレビやネットがいいぞ、見ろ、買えと言い募るものなど目もくれずに自分だけのお気に入りの城を作った方がいい。そう、思います。特に大学時代は。

はい、そろそろ祝辞。忘れていましたが、以前一度だけ祝辞を述べた過去があります。NHKに入局した新入社員への祝辞。
それが、ちょっと、自分で言うのもなんですが、局内で今も語り草になっているらしくて。
もちろんおめでとう、と言うつもりで成城学園にあった会場に足を運んだんだけど、私の前にスピーチした偉い人が、新入社員のみんなに、有給休暇だの住宅手当だの、まあ、とても恵まれた福利厚生のはなしをしていて、当時僕はまだテレビの制作会社の人間だったので、
なぜ、同じようにテレビに関わり、明らかに自分達の方が労働時間が長いのに、賃金は半分以下なんだろう、と。
で、用意した原稿は脇に置いて君たちは恵まれている、と言う話をしました。
で、それ自体は自分達で獲得したものだから、批判しない。当たり前では無い環境で番組を作っている私たちが間違っているのだ。でも、もし私たちと一緒に仕事をする様になったら、この人たちは、自分の半分も給料をもらっていないのだ、と思い出してくれ。そして、自分の志を捨てて組織の言いなりにならないでほしい。そのかぎりは、私たちは仲間である。しかし、保身に走って、出世に走って面白い番組を作ることを蔑ろにしたら、多分ここにいる殆どがそうなるが、もしそうなった時は皆さんは私の敵だからな、と。
祝辞で、敵だからなと宣言した上で入局おめでとう、と締めくくりました。多分あそこにいた、ほとんどの局員は今、敵なんじゃ無いですかね。ま、そんなことはともかく、今回は、ですから、2度目の祝辞です。

教員として早稲田の学生と話していて一番感じるのは、世の中にあまり不満がないということです。先生は何故いつもそんなに怒ってるのですか?と何度か聞かれたことがあります。あえて挑発的に言いますが、あなたに不満や怒りがもし無いのだとしたら…それはあなたたちがとても恵まれているからです。いかに恵まれているか、を自覚して下さい。そして、恵まれていない人があなたの周囲に存在していることに是非気付いてください。そして、自らが、誰かの、世界の不幸や不平等に加担していないか?
そのことを自らに問うて下さい。そうしたら、見えないものがあなたの周りに見えてくるかも知れない。あなたのようには恵まれない人たちの存在が見えた時に、それでも不満も怒りも感じずに生きられるかどうか。恵まれている。それは確かにあなたが勝ち取った権利かもしれない。しかし、
それは、私たち大人が出した問いに、上手に答えられたに過ぎないと、明日からは考えて、問いを出した私たちを否定しなさい。私たちの脅威になりなさい。

決して、今の社会に順応するだけの、器用さを手に入れるだけのために人と会ったり本を読んだり、この大学に通わないでほしい。
あなた方のエネルギーだけが、この世界を変えることが出来るのだから。

私たち大人の敵になることが、世界を半歩先へ更新していく原動力になるはずです。良い敵になって下さい。

みなさん、ご入学おめでとう。

是枝 裕和 氏 挨拶文

(プロフィール)
1987 年本学第一文学部卒業後、テレビマンユニオンに参加。主にドキュメンタリー番組の演出を手がける。1995 年、『幻の光』で映画監督デビュー。2004 年、『誰も知らない』がカンヌ国際映画祭にて史上最年少の最優秀男優賞(柳楽優弥)を受賞。2013 年、『そして父になる』がカンヌ国際映画祭審査員賞受賞。2014 年に独立し、西川美和らと制作者集団「分福」を立ち上げる。2016 年、映画・映像制作者としての活動を高く評価され、第8 回伊丹十三賞を受賞。2018 年、『万引き家族』がカンヌ国際映画祭パルム・ドール(最高賞)を受賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート。2019 年、全編フランスで撮影した日仏合作映画『真実(原題:La Vérité)』が日本人として初めてヴェネチア国際映画祭コンペティション部門オープニング作品に選ばれる。2019 年早稲田大学坪内逍遥大賞を受賞。2014 年より本学理工学術院教授。
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