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Report 副専攻「演劇・舞台芸術」全体活動 オーストラリア先住民劇団イルビジェリ芸術監督 レイチェル・マザ氏講演会

Report_副専攻「演劇・舞台芸術」全体活動  オーストラリア先住民劇団イルビジェリ芸術監督 レイチェル・マザ氏講演会

2018年5月7日(土)に「演劇・舞台芸術」全学副専攻全体活動として、オーストラリア先住民劇団イルビジェリの芸術監督をつとめるレイチェル・マザ氏に講演をしていただきました。この講演は、オーストラリアの今の姿を紹介する、オーストラリア政府による8か月間の集中プログラム「オーストラリアnow」の一つとして実現しました。日本の演劇関係者、オーストラリア大使館の方々を含め一般の参加者も多く、早大生も合わせて100人以上がマザ氏の講演を聴きました。

マザ氏は今回、静岡市で行われた「ふじのくに せかい演劇祭」で、彼女の演出作品『ジャック・チャールズvs王冠』を上演するために来日しました。この作品は、オーストラリア先住民の俳優ジャック・チャールズが、彼の波瀾万丈の人生を、歌を交えながらひとりで語るというもの。ジャックは先住民に対する同化政策である「ストールン・ジェネレーション」の犠牲者であり、また先住民が演劇を通して初めて自らの声を上げた70年代初頭のブラックシアター運動の先駆者でもあります。『ジャック・チャールズvs王冠』は国内外で何度も上演され高い評価を得てきましたが、今回の日本での上演が、最後の海外公演となりました。

授業で『ジャック・チャールズvs王冠』について学び、その上でマザ氏の講演を聴いた学生のレポートを紹介します。

(林花梨 政治経済学部)
私は元々演劇学を志していたが, 自分の社会や政治に対する無知に気づき, 「社会を知らずに演劇をすることはできるのだろうか」という疑問から政治学を選んだこともあり, メッセージが先立ち, 伝えたいという想いが強い今回のテーマ, オーストラリア先住民演劇「ジャック・チャールズvs王冠」は非常に考えさせられるものであった。

オーストラリアでは, 1790年代に上陸したイギリス人が, 白人国家を作り上げるために, 先住民アボリジニの大量虐殺・隔離・同化を行った。現代でも, 両者の間には多くの格差が見られる。この白人と先住民の間の歴史は国の政策によって, 捻じ曲げられて語られてきた。歴史は, 勝者によって, 都合の悪い真実は隠されて語られるのだ。そこで声をあげたのが, 先住民演劇である。不正や不平等を訴えるために, 政治的ツールとしての演劇運動が高まった。演劇の中では, 彼らは自由に語ることができるのだ。また, 重い背景から生まれた演劇ではあるものの, 彼らはユーモアを第一とした。

今回初めてオーストラリア先住民演劇の存在を知ったのだが, その当事者が歴史的コンテクストを持って舞台を作るという行為が非常に特異に感じた。ジャック・チャールズが語ること, 延いては彼の存在自体がアボリジニの歴史であって, 舞台を作り上げる。彼の人生こそが演劇である。私は虚構であることが演劇であると思っていたが, 舞台上にノンフィクションを構築しつつもそれもまた虚構であるという不思議な世界に夢か現か分からぬような奇妙な感覚に陥った。ノンフィクションをフィクションに持ち出す過程に演劇ならではの独白や場面転換を存分に用いていた。『CORANDERRK』で使われた, 議事録をそのまま戯曲にするという手法も興味深かった。

また, この演劇は, 当事者意識から生まれたと思う。私は終戦記念日にテレビで特集が組まれる戦争体験者の声を思い出した。当事者であることは辛いことかもしれない。しかし, 彼らの語る言葉は貴重であり, 価値がある。それを演劇として表現することは有効だと思った。方法論としては理解できたが, あいにくアイデンティティも, 帰属意識も持ち合わせていない私には真似ができない。

そして, 私はこれまでほとんど政治的メッセージの強い芝居を見たことがなかった。ちょうど本日の朝刊(2018年5月11日朝日新聞)で「三島自身が述べていたように, 三島由紀夫と全共闘の間には, 深い部分で共鳴する部分があったのだが, 全共闘はそれを正面から直視しようとはせず, 三島はそれを演劇的な出し物へと変えてしまった。」という記事を見かけた。かつては三島が目指したように, 演劇に政治性を持ち込むことを試みた若者が多くいただろう。最近, 若者の政治に対する無関心が叫ばれて久しい。果たして本当に政治と若者の関わりは希薄になっているのだろうか。それでは同時に, 政治と演劇の融合も失われつつあるのだろうか。私は現代日本の若者の政治に対する怒りを演劇で見てみたい。

(円城寺すみれ 文学部)
今回、演劇の鑑賞と理解・演習の講義を通して、『ジャック・チャールズvs王冠』、そしてオーストラリア先住民演劇に初めて触れた。

はじめ、オーストラリア先住民演劇や作品についての説明を受け、字幕の文字を読んでいった時、私は彼らに同情し、胸が苦しくなった。その時、私はこの作品を、「観客の同情を誘い、彼のような人々が存在したということを観客の胸に刻むもの」なのだろうと考えた。しかし、映像を観て、意表をつかれた。そこには、ただの悲嘆ではなく、明るさを内包したパワーに満ち溢れた舞台が存在していた。何故、このような形で上演しているのだろうか。

この作品の特徴は、ジャック・チャールズ自身が彼の人生を1人で語っていくこと、音楽などを交えながら進めていくこと、物語が事実であること、などが挙げられる。そのような中で、彼は人生を語るだけでなく、精一杯に「表現」していく。その表現の力強さの中に、この舞台を創り上げていった人々の情熱を感じることができる。「私たちは、同情を得るだけで終わらせない。絶対にこの状況を変化させてみせる。」というような情熱を。

ここから、この作品が「演劇」である必要性が見えてくる気がする。隠された事実を広めたいだけなら、本や講演会など、さらに効率のいい方法が多く存在する。しかし、彼らはこの出来事を「演劇」で描いた。それは、演劇が伝えることができるもの、そしてその強さを信じ、身を委ねたからであろう。

「原動力は変化をもたらしたいということ」とレイチェル・マザ氏は、講演会の中で述べた。オーストラリア先住民演劇は、現状を伝えたいから、変化をもたらしたいから、舞台を創るというように、原動力を形にするツールとして演劇を捉えているのを強く感じた。これに対し、現在、日本では、このような強い原動力から創りだされる演劇はなかなかないと感じる。それが悪いわけではない。どちらも演劇の在り方のひとつなのだと思う。私はこの舞台との出会いを経て、演劇のさらなる可能性を感じた気がする。きっと、世界のどこかにはさらに異なる力を持つ演劇があるのだろう。日本国内や、アメリカ、イギリス、韓国などだけでなく、他の様々な地域の演劇にも目を向け、さらに多くの演劇の力に触れていきたい。

関連リンク

マザ氏の講演についての詳しいレポートは、オーストラリア大使館による「オーストラリアnow」のサイトをどうぞご覧ください。

(日本語)https://australianow2018.com/news/20180510-22

(英語)https://australianow2018.com/en/news/20180510-22

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