自己紹介
私が初めてフランスを訪れたのは大学2年生の夏でした。それまで国外に出たことのなかった私は、早稲田大学のエクステンションセンターが主催する4週間の語学研修プログラムに参加して、南仏ニースとパリに2週間ずつ滞在しました。
充実していた(はずの)授業については不思議なほど記憶がないのですが、同級生の友人が学食から持ち帰ってきたオレンジを海辺でかじったときの衝撃や、深夜の国際大学都市へと向かうタクシーのなかで、ぐんぐん上がってゆくメーターに戦々恐々としたことなどは、30年以上が経ったいまも瑞々しく思い出すことができます。
その後ふたたびパリの地を踏んだのは博士課程に進学してからのことです。高等師範学校サン=クルー学生寮での1年間、そしてパリ市内サン=ルイ島の片隅に借りた押入れのような小部屋での2年間は、本当にいろいろなことがありました。

下宿のちいさな窓から見上げた景色。
向かい側から顔を出した隣人を通じて、二人の友人ができました。
大学に行き、書店を巡り、図書館に通いながら、なかなか研究が進まず天を仰いだり俯いたりもしましたが、留学中に知り合った人たちと過ごした当たり前のような時間 ——コーヒーを飲み、映画を観て、クスクスを食べ、散歩をして、音楽を聴いたこと—— は、いまの自分に欠かすことのできない糧となっています。

「自転車に乗るぞ」という一言とともに連れていかれたパリ郊外。
私の専門分野、ここが面白い!
私の専門分野はフランス近代文学で、なかでも19世紀末から20世紀初頭を生きた小説家マルセル・プルースト(1871-1922)を中心的な研究対象としています。最もよく知られているのは未完の長編小説『失われた時を求めて』(1913-1927)でしょう。
作家になりたいという思いを抱いた「私」を主人公とするこの自伝的な小説は、フランス語原文で3,000ページ、400字詰め原稿用紙換算で1万枚もの長さがありながら、細部にまで目の行き届いた、どこまでも緻密で有機的な構成を備えています。
たとえば、鍵となる「時」« temps » の一語がタイトルに含まれるのは自然なこととして、作家はそれを作品冒頭の一語 « longtemps » にさりげなく織り込んだうえで、長大なテクストの結びには ——すべてをそこに収斂させるようにして—— 大文字に姿を変えた「時」« Temps » を置いています。
子ども時代の記憶とともに動き出した「私」の物語は、長い歳月の果てに文学創造の道を見定めるところで幕を閉じるのですが、何より面白いのは、そこに至った読者の心にひとつの問いが湧き上がることです。
「私」がこのさき実現するかもしれない書物は、ひょっとして、いま自分が読み終えようとしているこの『失われた時を求めて』に酷似したものになるのではないか ——
プルーストの世界に足を踏み入れた読者は、この問いに導かれながら、閉じられた円の軌跡をなぞるようにして、あるいはむしろ、開かれた螺旋を描くようにして冒頭へと立ち返り、初読では見えなかったいくつもの仕掛けを見出す再読のほうへと誘われてゆくのです。

1910年1月にパリを襲った洪水 « crue » の到達水位を示す標識。
プルーストも目撃した歴史的な出来事は、現代作家フィリップ・フォレストの小説『洪水』Crue のモチーフにもなりました。
プロフィール
おぐろ まさふみ。1974年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学専修を卒業後、京都大学大学院文学研究科文献文化学専攻フランス語フランス文学専修修士課程に進学。2005年、同研究科博士課程修了。博士(文学)。京都大学、京都市立芸術大学、同志社大学、京都女子大学で非常勤講師を勤めたのち、2010年4月、駒澤大学総合教育研究部外国語第二部門に着任。同大学専任講師・准教授・教授を経て、2023年4月より現職。
主な著書・訳書
『プルースト 芸術と土地』名古屋大学出版会、2009年。
フィリップ・フォレスト『夢、ゆきかひて』白水社、2013年(共訳)。
——『シュレーディンガーの猫を追って』河出書房新社、2017年(共訳)。
——『洪水』河出書房新社、2020年(共訳)。
アラン・コルバン『木陰の歴史 感情の源泉としての樹木』藤原書店、2022年。
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