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スターン教授特別講演「シェイクスピア時代における悲劇とパフォーマンス」を開催

スターン教授特別講演「シェイクスピア時代における悲劇とパフォーマンス」

2018年11月27日に「シェイクスピアの時代における悲劇とパフォーマンス」と題して、バーミンガム大学シェイクスピア研究所のティファニー・スターン教授による特別講演が行われた。「悲劇的舞台演出法」「悲劇的歩行法」「悲劇的発話法」の3つの視点から、400年以上前にシェイクスピアが関わっていた劇場の実践的表現にスターン教授は迫った。

1623年に出版されたシェイクスピア最初の全集である第一二つ折り本の目次に記されているように、シェイクスピア作品は一般的に歴史劇、喜劇、悲劇に分類されている。舞台での上演となると、悲劇は喜劇と明らかに違う形で表象されていたのだろうか。近世の頃の辞書を一瞥すると「コメディアン」と共に「トラジディアン」の見出しが見つかり、どちらもそのジャンルにおける書き手と定義されている。しかし、シェイクスピアは『ハムレット』で「街のトラジィアンたち」という表現を用いて、その演者を指している。加えて『アントニーとクレオパトラ』でも「コメディアン」が演者を示す文脈で使われている。こうした例を踏まえ、自らが喜劇作家であり悲劇作家であったシェイクスピアからすると、それぞれのジャンルの演目の表現者たちにはスタイルを体現するような特徴がある人々と認識していただろうとスターン教授は述べた。

悲劇の舞台表象としては、黒色のカーテンが上演される演目が悲劇であることを示していたという。シェイクスピアはこうした習慣に実験的に取り組んでおり、『ヘンリー4世第1部』には「天上から黒衣を吊るす」の台詞も見られる。これは文字通りの意味と暗示の両方の効果があると考えることができる。舞台上の天井は同音の「天上」と呼ばれていたので、発話者は物語の暗い局面と、天井付近に設置された黒い布に言及していたとされる。もし黒い布が舞台上に用いられることが悲劇の示唆だったとすると、観客たちは劇場内に足を踏み入れた瞬間に演目の内容が察知できたことになる。換言すると、演者による発話を待たずして、ジャンルの暗示が観客には行われていた実情を意味するのだ。こうした状況は紙面からは読み取ることができないのだが、シェイクスピアがどの演目で黒衣の効果を活用していたかは明らかになっていない。

当時の絵画などを一瞥すると、黒い布は舞台の背景として用いられていたことが理解される。イギリス文化としての黒色の認識というものもあり、棺桶や死者の過ごした家を黒布で覆うこと、葬儀の参列者の喪服の色にもちいられることから、黒は死に結び付けられてきた。この考え方によると、ハムレットのように喪服を着ることが決められているキャラクターは、悲劇のシンボルとして劇中に存在することになる。また、『十二夜』のオリヴィアのように、喜劇作品にありながら喪服を着る人物がどのように認識されるべきかについても興味深い側面として示された。

他の資料によれば、歴代の王の死が描かれた背景の前で、新しい王の死を扱う演目が上演されていたこともあるようだ。ここには別用の小道具カーテンが用いられ、それは暗に悲劇性を示すだけではなく、悲劇的物語の流れを表現していることになる。多岐にわたるカーテンの使用方法を強調するため、スターン教授は「喜劇のカーテン」として、愛の神であるキューピッドが弓で恋に落とそうとする人物を狙っているものを紹介をした。

17世紀から伝わる別の資料では、舞台に赤色が用いられたこともあると指摘した。これによって、悲劇を象徴的に示す色として、黒布の活用と赤色の舞台という組み合わせが表出してきた。しかし、問題となってくるのは、赤く塗った舞台をどのようにして劇場経営者たちは喜劇の上演用に消したかということである。スターン教授は当時の通例として喜劇舞台に藁が撒かれていたことを紹介し、こうして赤色が覆い隠されていたと同時に、喜劇の上演中にも赤色が見え隠れすることで、悲劇性を象徴していたと考えるのも興味深いと述べた。

シェイクスピアが劇場で色彩のコンセプトをどのように使っていたかは明らかになっていないものの、スターン教授は日本の歌舞伎の文化にヒントがあるかもしれないとした。現時点でも仮説に種々の類似は見られ、歌舞伎が古くから形を変えずに継承されてきた点を考慮すると、失われてしまったシェイクスピアの色の活用法と似ている可能性が十分あり得るとした。

講演は悲劇的な足についてのテーマに移り、その入り口としてスターン教授は「バスキン(buskin)」と「ソック(sock)」の2種の古くから履かれていた靴を紹介した。前者はヒールのあるブーツ状の履物で、ローマやギリシアの頃より悲劇の演技に使われていた。後者は薄手の靴の形状で、喜劇的な演技に関連付けられてきた。近世にはそれぞれの名詞への言及が幾つか見られ、それらは悲劇や喜劇の表現力を測る指標として触れられている。1616年に二つ折り本を自ら出版したベン・ジョンソンは豪華な版画を扉絵に使い、自身と古典のつながりを表していた。ここで2人の悲劇と喜劇を象徴する人物が描かれ、それぞれの足元にはバスキンとソックが履かれている。古くからの文化を打ち出した点に、ジョンソンが過去から継承された作劇技術を活用しているとスターン教授は解説した。

同時代の作品に登場するタンバレンという人物の歩き方に言及されている文言を検討することで、「闊歩する(stalk)」がキーワードとして現れてくる。この動詞が他では蜘蛛の動きに例えられていることから、スターン教授はまずバスキンによって延長された長足で足の長い蜘蛛のように闊歩する作法を悲劇的動作とした。シェイクスピアも『ハムレット』の亡霊のように、「闊歩する」という動きに触れている。タンバレンはシェイクスピアより先に活躍し、影響を与えつつもシェイクスピアが常に超えようとしていたクリストファー・マーロウによって生み出されている。この点から、亡霊の歩き方は戦争のイメージを伴ったタンバレンに習ってのことか、死んだ先王ということで古臭くなった動きと皮肉っているのかとスターン教授は疑問を提起した。『トロイラスとクレシダ』でシェイクスピアは同種の歩みを孔雀と関連させており、ここでも歩幅の広い歩き方が出てきていた。

シェイクスピアの同時代時作家のひとりであるトマス・デッカーは黒色の舞台に言及しつつ、悲劇役者の作法に関連付けて「勢いよく(jet)」を使っている。この単語は「漆黒」の意もあるため、悲劇的な色彩との関わりもここに見られる。「闊歩する」に加えられる2つ目の歩き方となるが、シェイクスピアは『十二夜』の中で、「七面鳥(turkey cock)」のように「勢いよく」とする表現を用いている。この時点まででスターン教授は「闊歩する」「蜘蛛のように」あるいは「孔雀のように」「勢いよく」、そしてそれは「七面鳥」のようでもあったとアイディアを集約させた。これらは誇張された表現である可能性も否定できないが、続いて「気取って歩く(strutting)」も当時の資料で触れられているとスターン教授は紹介した。『トロイラスとクレシダ』の言及から、気取った歩き方を見せる役者の足元からは自惚れが表現されており、それは独特の歩き方から醸し出されていると述べた。

続いて呈示された当時から伝わる唯一の劇場内を描いたイラストでは、観客不在の劇場でありながら、大きな歩幅の人物が書きとめられている点に注目された。スターン教授はこの人物こそ悲劇的な歩みを表しており、「闊歩」か「勢いよい」歩きか「気取って歩いている」のいずれか、全てを同時に行っている可能性もあると述べた。

『ヴェニスの商人』のポーシャの台詞からは女性が「気取った歩調(mincing step)」であったのに対し、男性はその性別を誇張するかのように「大股(stride)」で歩いていたことが予想された。女性の歩き方は当時着用されていたスカートが足を前後に開く邪魔になっていたことからも、男性に比べて小股であったことがわかる。結果として、女性は一般的に認識されていた悲劇的な歩き方を実践できなかったと言えるだろう。言い換えると、女性の登場人物は男性のそれが表現していたような悲劇の象徴として舞台上に立つことができなかったとまで考えられる。戯曲中に散りばめられた言及の幾つかを検討してみると、バスキンを履くことで延長された足による大股の闊歩が悲劇的な作法として想起され、彼らが高いヒールから生じる大きな音を立てていたこともイメージされた。

悲劇的な話し方がどのようなものであったか当時の戯曲の中の形容を探してみると、「音色(tone)」「調律(key)」などの通常音楽と関連付けられる単語が発見される。ここからかつての悲劇役者は特定の調整のある台詞運びをしており、スターン教授はここにも歌舞伎の話法との類似を指摘した。伝承されていない演技法や発声法の復元は困難を極めるものの、スターン教授は1775年より伝わる最古の演技記録を紹介し、どのような舞台上で発声が行われていたか考察した。それは『ハムレット』の第4独白(To be, or not to beで始まるもの)を当時の人気役者であったデイヴィッド・ギャリックがどのように朗唱したかの記録で、録音技術のなかった時代から残されている資料には音符が書き記されていた。ここから18世紀の俳優による人工的な発話は、シェイクスピアの頃との類似をうかがわせる音楽的なものであったと指摘した。

現在の演技となればより自然な発話法の実践を目標とすることが多い。一方で古い時代の基準からすると、いっそう統制の取れたいわゆる不自然なものが求められていた可能性が見えてきた。これは特に識字能力をもった観客たちが、悲劇上演からなんらかを持ち帰ろうとしていた習慣へと繋がっていく。「テーブルブック(table book)」と呼ばれる手帳のようなものを通じて、それを劇場に手にした観客たちは気に入った語句を書き込み、後に書き残しておくかを検討し、場合によっては保存していた。こうした観客の行為を嫌った劇作家とそうでない作家がいたようで、ハムレットなどは手帳持ちの観客と似たキャラクターとして紹介された。スターン教授は劇中でハムレットが手帳を取り出す場面を例に、それが観客に同様の動作を求める台詞なのか、そうした行為を暗に批判するものなのか、はたまた悲劇の主人公との一体化の効果があったのかと問いかけた。

手帳持ちの観客たちが劇場内で新語を集めていたという状況も興味深い。シェイクスピアや彼の同時代人作家による造語は識字能力のある観客たちにとっては魅力となっており、しかし一方で、現在の観客、読者を戯曲から遠ざけているものでもあるからだ。スターン教授は、かつての新語を集めていた人々にとって、劇作家の造語が贈り物であったように、それは現代の我々に残され、言語を豊かにした宝でもあると語った。

終わりにスターン教授はシェイクスピアの所属した劇団の人気俳優であったリチャード・バーベッジに寄せられた賞賛を紹介した。それによるとバーベッジは「すべての語句に重みを持たせ(weighed every words)」、「すべての歩調を計った(measured every pace)」となっている。ここには即ちバーベッジは完璧な発声・発音と、巧みな歩みを舞台上で披露していたことが暗示されている。こうした特徴を持っていたため、バーベッジは「目に美しく、耳に心地よい(Beauty to the eye, and music to the ear)」とも書かれている。当代きっての盟友に与えられた賞賛からも、偉大な役者は音楽的な台詞運びと、威厳のある歩き方を備えていたと想像される。スターン教授は結びとして、シェイクスピアの時代の演技法との類似がふんだんに見られながらも、完璧な形で継承されている日本の伝統芸能こそ、400年以上前の舞台の再現の鍵になり得るとし、その点を強調した。

講演後には、会場に集まったイギリスからのゲスト、早稲田大学関係者、学生、一般を含むおよそ40名の聴衆から積極的な質問とコメントがスターン教授に寄せられ、盛況の元に会は幕を閉じた。スターン教授による本講演は、「悲劇的舞台演出法」「悲劇的歩行法」「悲劇的発話法」の見地からシェイクスピアの時代の演技・演出法に迫るだけではなく、詳細な日英の共同研究の可能性も示唆しており、非常に価値のある企画となった。

 

<イベント概要>

日時:2018年11月27日(火)

開催時間: 15:15~17:45(14:45開場)

会場:8号館3階303-305教室(早稲田キャンパス)

使用言語:英語

講演者:ティファニー・スターン教授(バーミンガム大学シェイクスピア研究所)

司会:梅宮悠講師(早稲田大学文学学術院)

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