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開催報告 日英国際シンポジウム 「現代のシェイクスピアの翻案と上演をめぐって」

日英国際シンポジウム 「現代のシェイクスピアの翻案と上演をめぐって」

■イベント概要■

開催日:2018年11月26日(月)

開催時間: 15:15~17:45(14:45開場)

会場:小野記念講堂(早稲田キャンパス)

使用言語:日本語・英語(日英同時通訳)

司会:冬木ひろみ教授(早稲田大学文学学術院)

コメンテーター:演劇博物館 児玉竜一副館長(早稲田大学文学学術院教授)

<第一部>

15:15~15:20 開会挨拶

森田典正教授(早稲田大学国際学術院)

15:20~16:35 講演

野村萬斎氏(狂言師)

ティファニー・スターン教授(バーミンガム大学シェイクスピア研究所)

アンガス・ジャクソン氏(俳優・演出家)

ケリー・ハンター氏 (フルート・シアター芸術監督)

<第二部>

16:50~17:00 総括

マイケル・ドブソン所長(バーミンガム大学シェイクスピア研究所)

17:00~17:40 登壇者による意見交換

17:40~17:45 閉会挨拶

冬木ひろみ教授(早稲田大学文学学術院)

2018年11月26日に「現代のシェイクスピアの翻案と上演をめぐって」の題で開催されたシンポジウムの開会の辞の中で森田典正教授は、バーミンガム大学のシェイクスピア研究所と早稲田大学の間の研究連携において、「シェイクスピアの翻案」をテーマにこれまで行われてきた企画の数々に言及した。2016年11月のシェイクスピア研究所所長マイケル・ドブソン教授の早稲田大学での講演に始まり、2017年1月に開催された2日間の研究会ではシェイクスピアの映画翻案をテーマとした研究発表と基調講演に加え、最新の映画翻案作品のスクリーニングが行われたことなどが報告された。2017年10月には早稲田大学から研究者の旅団がストラットフォード・アポン・エイヴォンとロンドンを訪問し、蜷川幸雄氏を記念するシンポジウムを在英日本大使館で開催したことも述べた。本年2018年度のイベントはバーミンガム大学と早稲田大学における4回目の連携開催においては、両大学の研究者だけに限定されず、他大学の研究者、あるいは役者、演出家と参加者の幅がますます広がっている状況にも触れた。今後は日本におけるシェイクスピア翻案を英訳した書籍の出版が予定されており、人文系の分野には珍しいとされる二つの研究施設の共同プロジェクトのモデルとなることが期待されていると強調した。

 

<第1部>   

■野村萬斎氏

黒澤明氏が『リア王』の翻案として作り上げた『乱』をシェイクスピアへの入口とした野村氏は、その後、渡辺守章氏の『ハムレット』、1991年にジャパン・フェスティバルがイギリスで開催された折には高橋康也氏が『ウィンザーの陽気な女房たち』を下敷きに書き上げた『法螺侍』に出演し、シェイクスピアの時代劇化、現代劇化、狂言化と様々な翻案の形式にて主演を演じてきた。狂言のスタイルに合わせて短くされた『法螺侍』は、ロンドン、ウェールズの他にもニューヨーク、香港、オーストラリア、ニュージーランドでも公演をし、広く人気を博してきた。シェイクスピアと狂言という二つの「古典」における共通性を感じていた野村氏は、1994-95年にはロンドンへの派遣が実現し、王立シェイクスピア劇団などで演出を主に学んできた。台本だけではなく演出も残っている狂言とは違い、シェイクスピアは古典的な台本を踏襲しつつも現代的な演出が常に行われるということで、時代の色がより濃く出る演出を学んだと述べた。2011年にジャパン・フェスティバルが再びイギリスで開催されたところ、留学の成果報告として『間違いの喜劇』を底本にした高橋氏翻案の『まちがいの狂言』がロンドン・グローブ座での上演を目指して製作された。グローブ座の舞台は野外にあって屋根が二本の柱に支えられているという能舞台に類似した形をしており、左手に橋掛りがない以外は、言葉で全てを描き出すテクニックまで共通していた。当地では日本人にのみ可能な翻案を意識し、本質的にシェイクスピアの言いたかったことを日本人として表現することを目標にしていたと強調した。

映像を鑑賞しながら解説された『まちがいの狂言』は、原作のように2組の双子の取り違いが面白味を持ってくるのだが、野村氏は1人が双子の両方を演じるスタイルを選択し、面の利用により人格の使い分けをしていたという。本来の人物ではないキャラクターで周りから認識されているときは面をつける表現方法により、組み合わせに間違いが生じているときは、主人と従者のどちらかが面をつけていることになっていたと述べた。

続いて狂言よりも能の手法に傾倒し、シェイクスピアの悲劇性の表現を目指した河合祥一郎氏の『リチャード三世』の翻案である『国盗人』が紹介され、本国イギリスとの違いを生みだすために亡霊の活用方法に技巧を凝らしたとした。亡者が面を付けることで亡霊として登場する約束事のある能の形式の中で、リチャードに命が奪われた登場人物たちはその面によって亡霊としての存在感を示していた。また影法師を取り入れる特徴も併せ持っており、リチャードの影法師が馬に変化するという最後を作り上げていたと述べた。

また、海外でも『マクベス』をベースにした黒澤氏の『蜘蛛巣城』、蜷川氏演出の『NINAGAWAマクベス』の受け入れられていることから、日本人と『マクベス』のつながりを野村氏は見据え、自身の翻案を河合氏とともに5人の役者で実現することに成功した。コンセプトではマクベスと夫人を人間最小単位の男女とし、魔女たちを自然と認識して作劇が行われたようである。端役の実演を含め、物語の進行などが全て魔女たちによって演じられる点や、狂言の舞などを利用し、随所に見られた象徴的な演出も映像とともに紹介した。舞台上に敷かれた布はマクベスの世界として位置づけられ、枠の外が物語世界の外と設定されていた。これを活用することにより、マクベスの狂気と同時に敷物は巻き上げられ、攻め込んできたバーナムの森が雪吹雪とともに暴れまわり、最終的には暴君を雪の下に埋め、自然に還った姿を表現したという。

このようにシェイクスピアと日本の古典演劇の技法とコンセプトを癒合させた演出の幾つかを映像で振り返りながら、実際の出演者である野村氏が説明を付け加え、海外からのゲスト陣にも効果的な解説となった。

■ティファニー・スターン教授「シェイクスピアの時代における上演とリハーサル」

スターン教授の講演は、シェイクスピアの時代の劇場経営者であったフィリップ・ヘンズローの日記(出納帳の類)への言及から始まった。1574年から伝わるこの記録には、次々に異なる演目が舞台に上げられていた当時の風習がうかがえる。現在で言う所の「連続公演」を行わなかった理由としては、ロンドンの人の流れがまだ緩慢で、同じ演目では連日観客が劇場に訪れることはなかったからとした。ここから当時の役者たちは異なる演目を毎日のように上演していた状況が理解され、またヘンズローの日記の‘Ne’と書かれた戯曲が新作を示していることから、レパートリーに含まれていない新しい演目も2週間に1回のペースで製作されていた点が指摘された。

短い稽古期間の中で役柄を身につけていた役者たちは戯曲の全篇の書かれた台本ではなく、「パート(part)」あるいは巻物状になっていることから「ロール(role)」と呼ばれた自分の台詞とそのきっかけとなる「合図(cue)」だけが書かれたものを活用していたとスターン教授は紹介した。効率的に思える役柄の修得方法ではあるが、自分が言葉を発していないときの周囲の状況や、自分に対して他の登場人物たちが何を言っているのかわからないため、キャラクター形成には苦心したと推察される。その他の初期近代より伝わる記録によると、役者たちは自宅で台詞を覚え、自らの動きや朗唱法を考えた上で数回のみ行なわれる舞台でのリハーサルに望んだようである。当時の戯曲の中にはこうしたシステムを嘲笑う台詞も残されており、それは故意であるかないに関わらず、合図を間違って相手に伝える役者がいると物語が収拾不可能な状態になることの証拠となっている。

スターン教授はシェイクスピアが演者でもあった点に注目し、役者たちがパートで役柄を練習している境遇に精通していたと提言した。『ハムレット』の端役であるレイナルドの台詞から作成したパートを見てみると、「わたくしの(my)」と「閣下様(lord)」が紙面に溢れていることがわかり、ここからレイナルドのキャラクターや声のトーンまで推察できるように思われる。こうした行間に隠されたキャラクターの本質は、相手役の台詞が書かれている台本では判別が難しいとも主張した。また、『十二夜』のオリヴィアのパートを見てみても、散文から韻文への変化が通常のテキストよりもわかりやすく、その語調の変化が彼女の恋に落ちた瞬間を示していると理解した。こうした詩行や台詞の塊の中に含められたキャラクター像こそ、作者が役者に与えた指示と言うこともできる。『ヴェニスの商人』のシャイロックとソラーニオの言葉の応酬からは、また別の効果にも気づかされる。ここでソラーニオは「制約を守ってもらう(have my bond)」というシャイロックの台詞を合図に自らの発言が始まるのだが、近い箇所でシャイロックは複数回合図と捉えられる言葉を吐いており、ここから円滑な会話が行なわれるというよりは、中断の連続が展開されるべきと察することまでできると述べた。

リハーサル不足や演出家不在という当時の状況は、役者たちに「台詞付け役(prompter)」、もしくは「台本持ち(book holder)」に頼る環境を生み出したと紹介した。さらに劇場で唯一台詞が全て書かれた台本の持ち主は、役者たちの舞台上での動作まで背景裏から指示していたという。また古い資料を一瞥すると、比較的多くの場合に口上や手紙の文面、唄の歌詞などが省略されている場合が多いようである。『ノルマンディー公爵ロロ(Rollo Duke of Normandy; 別題The Bloody Brother: 血腥い兄弟)』の初期版本を見るとその理由が明らかになってくるとした。こちらの印刷本では右手に戯曲の始まりが印字されており、左ページには後のシーンで唄われる歌詞が記されている。これはすなわち、植字工が受け取った印刷用の原稿では歌詞の部分が別の紙に書かれており、活字化の際には巻頭に配置された状況を示していると述べた。

スターン教授が主張したように、シェイクスピアの時代の役者たちは台詞を自宅で記憶し、本番前の1回のリハーサルで覚えた舞台上での動き以外はすべて即興で辻褄を合わせていたことになる。台詞付け役は足りない指示を舞台裏から出し、それ以外には「プロット(plot)」と呼ばれる役者の入退場を書き込んだ紙切れが参考にされていたようだ。スターン教授は最後に、現代の斬新な演出の数々を見ることは興味深いことに違いないのだが、過去の資料などを仔細に検討すると、我々が失ってしまった劇場や舞台運営の習慣が見えてくると付け加えた。

■アンガス・ジャクソン氏「シェイクスピアのローマ劇シーズン」

ジャクソン氏は王立シェイクスピア劇団において演出した『ジュリアス・シーザー』、『アントニーとクレオパトラ』、『タイタス・アンドロニカス』と『コリオレイナス』の4作品からなるローマ劇シーズンについて紹介した。複数の作品を一つの演目に融合させるパターンはこれまでもあったが、ジャクソン氏は多少のカットと場面の移動などの手法を駆使しながら、4つの演目をほとんど元の長さのまま演出した。2017年から開催された一続きのシーズンにあって、『ジュリアス・シーザー』から始まる社会に対する統一された考えを提示したかったとした。

まず『ジュリアス・シーザー』で取り入れられることが決まった古典的なトーガの衣装は、近年頻繁に見られる黒いスーツなどによって昨今の政治家を暗示する表現方法との差別化を狙ったからであるとした。演目として興味深い点は、現代社会において上演されると、暴君に立ち向かうブルータスやキャシアスに多くの観客が同情するというところである。しかし、別の角度から見ると、ブルータスは聴衆から絶大な指示を得ているシーザーを失脚させ、自らの階級の権力保持を目指した人物とも解される。歴史上のブルータスとシェイクスピアの描いたブルータスは異なっているため、制作側としてはどちらのキャラクターとして表象すべきかの判断を下す必要があったと述べた。

ジャクソン氏はこの度のプロジェクトを人と政治と雄弁術の循環と呼んだ。特にローマ劇において、ラテン語でロゴス、ペイソス、エソスからなる雄弁術は重要となっており、それは政治家における有権者への説得が頻繁に行われている現代では、殊更興味深い作用が期待される。こうしたコンセプトを持ちながら王立シェイクスピア劇団でのシーズンは1年半の間継続され、『ジュリアス・シーザー』には『アントニーとクレオパトラ』が続いたことを紹介した。

女性によって構成される劇中社会の中心には、最も魅力的で最も力を持つ役柄で、ありとあらゆる権力の集約ともいうべきクレオパトラが存在している。2つの演目上の出来事が10年程度の隔たりしかないということで、『アントニーとクレオパトラ』に設定された時代背景は『ジュリアス・シーザー』から引き継がれたものとなっていた。『ジュリアス・シーザー』で描かれた政治システムが現代的であったのに対し、『アントニーとクレオパトラ』は原始的なものを採用していたものの、舞台上に象徴的に置かれていた白いライオン像が上部に掲げられることで、ローマ帝国の拡大を象徴していた。

『タイタス・アンドロニカス』になると、現代的な服装とともに時代設定が今に近づき、作品自体はフィクションだが、一連の演目のつながりから、舞台上ではすでに何人もの皇帝たちの死が表現されてきたことになる。ここでも雄弁術の効果が強調され、特にサターナイナスが市民に語る場面では、縁台に白いライオンをここでも描くことにより、これまでの連続性が表面化されていた。これまではセットの一部として柱が舞台後方に数本立てられていたが、『タイタス・アンドロニカス』よりガラスがはめ込まれるようになり、現代のヨーロッパの議会を思わせるような建物に生まれ変わっていた。セットの変更は国家というものがより洗練されてきた状況を暗示するためだったが、同時にその真価を問いかけるためでもあったとジャクソン氏は付け加えた。

『コリオレイナス』ともなると、物語の背景はいっそう現代的になり、富と貧困の明確な区分けも提示されるようになった。今回の作品でも雄弁術の活用が随所に見られ、主人公から権力を奪うために議員たちが用いたスピーチの数々がその好例となっていた。興味深いことに、ここまで度々触れられてきた白いライオン像は舞台の後方に収納され、観客たちは壁の隙間からその存在を確認するに留まった。ジャクソン氏はここにかつて『ジュリアス・シーザー』の頃に万人に開かれていた政治というものが、『コリオレイナス』では閉じられたものに変わり果てた実情を示したと述べた。

こうした皇帝から次の皇帝へと矢継ぎ早に変化していく国のあり方を一本の筋道を通して表現することから、ジャクソン氏は観客に対し、崩壊した国家の後に今度はどのような新しい国家を建てるかについて問いかけた。

■ケリー・ハンター氏「シェイクスピアの鼓動」

20年ほど前、ハンター氏は王立シェイクスピア劇団で大きな役柄を任されていた。しかし、シェイクスピアの中には未だに触れられていない鼓動のようなものが隠されており、自身が求められていることの真価を問うようになったという。そこからハンター氏は自閉症や介護を必要とする子供達と接するようになっていった。当初自閉症の子供達と関わることは歓迎されなかったが、そうした子供達の可能性をシェイクスピアのリズム、シェイクスピア特有の弱強五歩格の詩型、シェイクスピアの鼓動で花開かせようとしたと言う。シェイクスピアの言葉の力を感じていたハンター氏は、それが自閉症の言葉を喋らない子供達、喋ることを止められない子供達、他者と目を合わせられない子供達、他者から目を逸らせない子供達に影響を与えるのかについて検証した。

参加者達は大きな輪になり自らの鼓動を感じることから始め、次第に「ハロー」と声を上げる活動がワークショップでは必ず行われることを紹介した。子供の状態によって言葉を発するまでに有する時間は異なるものだが、普段喋らない子供達も時間をかければ、「ハロー」と声を出すように変わっていったという。鼓動とは胎児の頃に聞く最初の音であり、それは最も心地よく落ち着く音とされる。ハンター氏は人間の鼓動とシェイクスピアの鼓動の共通性に気づき、それは普遍的で言語も必要としないと述べた。

ハンター氏の行うワークショップでは鼓動を感じる輪に続いてさまざまなゲームが行われる。ここにはシェイクスピアが作中で頻繁に使用した4つの言葉がキーワードとなっており、それらは「目(eyes)」「心(mind)」「理性(reason)」と「愛(love)」である。シェイクスピアの言葉を検討していくうちに、ハンター氏はシェイクスピア自身が「愛情深い目(loving eye)」を探し、いかに「心で見る(see with our mind)」か考えていたことに気づいたという。こうしたコンセプトは自閉症の子供達と接する際には重要となったそうである。人々は実際に目で見るより心で感じることが多く、それが自閉症の子供達となると、他の誰よりも緊張状態で物事を見つめている。ハンター氏はシェイクスピアが視力を失うことになった人物や見たくないものを見なくできなくなった人物まで描いている点を加えた。ハンター氏の子供達とのゲームはこうしたシェイクスピアの取り組みを反映している。その理由として、自閉症の子供達は自分の「目」と「心」を使って「愛」と「理性」を表現することに苦しんでいたことが挙げられた。ハンター氏にとってシェイクスピアの言葉は普遍的な人々の日常の経験を表現しており、それこそ自閉症の子供達が日常レベルで体験することすら困難にしていたものであったとした。

シェイクスピアの真価を探していたハンター氏は、このようにして第4の壁を壊し、人と接し、刺激する方法を発見したという。また、21世紀にあってシェイクスピア演劇は観客に対して手を延ばし、それは観客が緊張せずに対応できるものでなければならず、観客席に座る大部分の人々の母語で上演することもこれに含まれる。この切り口でハンター氏は観客に迫ることを目指しており、様々な理由で劇場に来られない人までも対象者にしていると述べた。

自閉症の子供達との取り組みによって、ハンター氏はシェイクスピアの真髄を発見し、いっそう自由な取り組みが可能になったと主張した。実はシェイクスピアの創作活動も、古典作品を思いのままに書き換え、自らの洞察を視覚的な詩文と愛情豊かな眼差しの精神で、当時の観客達にシェイクスピアの感性を伝えていた点でも類似している。『ハムレット』を上演した際に、ハンター氏はどの台詞を観客に伝えたいかを最初に考え、従来のカット箇所の選定を行うことをしなかったと言う。ハムレットによる6つの独白と亡霊の場面を中心に精読を行い、劇団の中で加えるべき登場人物や場面を検討したようだ。結果として、完成した演目がハムレットに寄るところが大きかったにも関わらず、観客から『ハムレット』の断片を見せられたというコメントはなかったと述べた。

『ハムレット』に次いでハンター氏が取り組んだ作品は『十二夜』で、その理由としてはオフィーリアの溺死が難破から生還するヴァイオラに繋がっているように思われたからであった。シェイクスピアは『ハムレット』で扱った狂気、悲哀、愛情といったコンセプトを『十二夜』の中ではユーモアと音楽で挑戦したと考えた。このユニークな解釈を自らの作品で表現するため、ハンター氏は『ハムレット』を溺死したオフィーリアによってレアティーズが罵倒されるシーンで終え、『十二夜』では演者達から水がかけられるヴァイオラの登場で始める演出を採用したと紹介した。この実例はシェイクスピアの登場人物は時折概念的なレベルで複数の戯曲をまたいで旅するように存在するものであり、ハンター氏もその点に着目し、「目」「心」「理性」「愛」を活用しここまでの旅路を歩んだという言葉で締めくくった。

左からジャクソン氏、ハンター氏、スターン教授、ドブソン教授、萬斎氏、児玉教授

<第2部>

イベントの後半は野村氏とハンター氏の舞台朗読から始まった。『マクベス』の第1幕第7場の主人公と夫人とのやりとりが日本語と英語で行われ、非常に珍しい実演となった。2人の登場人物の性質からか、読み始めは不可思議なズレが感じられたが、場面が進むにつれて異なる2言語の朗読であったにもかかわらず、シェイクスピアの4大悲劇に描かれる強烈なキャラクターが明瞭に表現されていた。

朗読後にドブソン教授が全体をまとめると、このイベントはシェイクスピアについて、シェイクスピアで、シェイクスピアを通してどのような試みが行われてきたか的確に紹介されていたとした。また、ハンター氏によるシェイクスピアの集約版は、野村氏が『マクベス』を5人の役者と敷物で表現したものと似通うところが指摘した。こうした試みは、早稲田大学の研究者、バーミンガム大学の研究者と演劇の現場の人々が協調しつつ、シェイクスピアが演劇の中でどのように生き続けているか検討する重要性を教えてくれると強調した。ジャクソン氏の複数演目を通して一つのコンセプトを下敷きにする演出も、研究者達に新しい分野の開拓を促し、一旦はすでにシェイクスピア研究所との協力関係によって証明されているとも紹介した。スターン教授はこれまでもテキストの編纂者達に向けて上演の重要性を説き、同時に役者達に扱っているテキストの真髄を理解するように提案してきていたとし、具体的には台本というものはそもそも断片がつなぎ合わされたものであり、組み合わせを変えることで別の一面が見えてくる性質があるということであると述べた。

日本のシェイクスピアに関しては野村氏の活動に象徴される部分が大きく、ドブソン教授はイギリスの古い演劇文化と日本の古典芸能の共通項が、似通った舞台と観客席の構造から今後も興味深い研究対象になると提言された。ジャクソン氏は蜷川氏の作品がストラットフォード・アポン・エイヴォンの王立シェイクスピア劇団のステージ、またロンドンのバービカン劇場で上演された過去を振り返り、象徴的演出を実践した蜷川氏に対し、リアリスティックな方向性を選択した自身の演出に観客が同じような反応を示すのか気がかりだったとした。

野村氏は自らの作品がイギリスと日本をつなぐ架け橋になっているのか、それともシェイクスピアがすでに日本演劇の一部として溶け込んでいるのかという質問応じて、狂言や能と同様にシェイクスピアも不変の心理を描いているために、世界各国各時代で受け入れられていると述べた。この性質の他にもいかようにも解釈できる多様性も作品の特徴として加えられた。

ハンター氏は舞台朗読用にスターン教授の協力のもと発音記号で日本語の合図がどのように発せられるのか書き込んでいたため、その手法が今後ハンター氏の劇団と異国の劇団の共演に活用できるのか問われたところ、役者の技術によって反応というものは身体から表現され、そこに言語の共通理解は必須ではないとされた。400年前に生まれた洗練されたシェイクスピアの言葉を用い、言語活動ではない切り口から子供達の発達に関わったハンター氏は、スターン教授の指摘した韻文と散文の変化が及ぼすキャラクター像の移行も興味深いとした。

他方でスターン教授は日本の伝統芸能における台本、演出法、演技法などが継承されている恵まれた状況を前提として、それらが役者や演出家の自由度を制約している可能性について言及しつつも、野村氏の古典的な技法を用い新しい演出の実践を讃えた。児玉竜一教授は歌舞伎の文化はヨーロッパ演劇の作劇法に似ており、役者が戯曲の断片を手に修練を積み、本読みで全体像を把握するスタイルまで酷似していると加えた。さらに、野村氏のような狂言役者達も毎日のように演目を変え、新作を定期的に加えていることからも、西洋と東洋の類似点がうかがえた。こうした多岐に渡る共通項を見出した児玉教授は、今後二つの国から派生している二つの舞台芸術の形態が融合する日も近いと提言した。

様々な視点からの講話が行われたことで、登壇者たちはシェイクスピアの形を変化させる文化は、すなわちシェイクスピアの元来の形に戻る行為であるとした。日本の伝統芸能とシェイクスピアを混ぜ合わせることで、シェイクスピアが400年前にどのように観られていたかと、シェイクスピアが今日どうあるべきかに迫れたことは非常に有意義な成果となった。

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