School of Culture, Media and Society早稲田大学 文化構想学部

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「BLの「祖先」に生かされた性的マイノリティとして」文化構想学部 溝口彰子准教授(新任教員紹介)

撮影:市川勝弘

自己紹介

私は大学生の時には、将来、研究者/大学教員になりたいとはまったく考えていませんでした。高校時代から「世界で自分ひとりにしかできないことってあるだろうか」などと考え込んでしまうたちでしたが、とにかく英語が好きだったので上智大学外国語学部英語学科にすすみ、市ヶ谷キャンパスでの英語による授業も履修し、交換留学制度を利用してアメリカの大学で1年学びました。卒業後は、日常レベルではないファッションに興味があったので、ファッション・デザイナーの山本寛斎さんの会社に就職。広報担当として、パリコレやNYコレクションも経験しました。世界的なロック・スターが寛斎さんを訪ねて来た時に通訳を務めるといったこともあって、度胸がつきました(円形ハゲになったりもしましたが)。

数年後、「生活とアートの融合」をかかげる複合アートセンター、スパイラル(株式会社ワコールアートセンター)に転職。オノ・ヨーコの個展『絶滅に向かった種族 2319~2322』(1993年)での怒涛のマスコミ対応や、『人間の条件』展(1994)では館内の楽屋、内階段、トイレなどのバックヤードも展示空間として活用するユニークな大規模グループ展の企画段階から参加し、NHKの夕方のニュースで紹介されることに成功、など、様々な経験をしましたが、その後の人生への影響という意味では、アーティスト集団ダムタイプとの出会いが大きかったです。私がスパイラルに入社したのは、ダムタイプのパフォーマンス『pH』の初演直後の1990年秋で、次作パフォーマンス『S/N』(1994-96)のスパイラル公演時にはハコ側のスタッフとして関わり、同作を牽引した古橋悌二(1960-95)のエイズによる死の翌年である1996年末までスパイラルにいました。1998年秋に留学したアメリカNY州のロチェスター大学大学院でのメインの指導教授だったダグラス・クリンプ(1944-2019)と出会ったのも、ダムタイプとその周辺の人たちが1994年の第10回国際AIDS/STD会議(横浜)のサテライト企画にダグラスを招聘して、私が通訳ボランティアで参加していたからです。

『S/N』との出会いは、個人的にレズビアンとして活動していた自分と、スパイラル広報という職業人の自分が融合していく過程でもありました。というのも、当時私は、職場ではカミングアウトしていませんでしたが、個人的にはレズビアンとバイセクシュアル女性のためのミニコミで、ライター、編集、発送作業ボランティアなどをペンネームで務めていたのです。そんな時に、職場で関わる作品である『S/N』で、古橋さんがHIV陽性のゲイ男性として作中で語っていた。その一方、私はレズビアンであるとカミングアウトしない限り異性愛女性だと思われたままになる。となると実質的に、「(私は異性愛者ですが)ダムタイプの古橋さんがゲイで」と語ることになってしまう。それをどうしても防ぎたくて、親しい同僚から始めて、最終的には上司全員にカミングアウトしました。ミニコミ活動でも1995年末から本名を使うようになりました。

ところで1990年代は、現在のレインボー・リール東京につながる東京レズビアン&ゲイ・フィルム・フェスティバルがスタートし、商業劇映画やドキュメンタリー映画、現代美術でも海外のLGBT作品の紹介が増えた時期でした。そんななか、20世紀の同性愛者の歴史をスタイリッシュなモノクロ映像で描く『ナイトレイト・キス』(バーバラ・ハマー監督、1992/1996)や、アメリカで初の当事者による「ガール・ミーツ・ガール」映画と呼ばれた『ゴー・フィッシュ』(ローズ・トローシェ監督、1994/1995)、オープンリーレズビアンの写真アーティスト、キャサリン・オピーによる、自身のSM実践姿やトランスジェンダーの友人たちの肖像写真のシリーズ(1993-7)などについて、ミニコミだけではなく商業雑誌に寄稿する機会をもらうようになりました。1996年には、デンマーク、コペンハーゲン郊外のルイジアナ近代美術館で開催された『NOW/HERE』展関連企画の「レズビアン・カルチャー」パネルに招聘され、『美術手帖』に館長インタビューと展覧会レポートの寄稿もしました。……こうなってくると、自分の勉強不足を痛感するようになりました。美術史、現代美術批評、映画史、映画論、フェミニズム、クィア理論などを学びたい、レズビアン当事者として、レズビアン・アートや映画を適切に論じる道具を身に付けたい、と強く思うようになったのです。そのことをプロポーザルに書き、ロチェスター大学大学院ビジュアル&カルチュラル・スタディーズ・プログラムという学際的な領域で学ぶことになりました。

行ってみると、ふたつのことが起こりました。

真冬のロチェスター(大学院留学先)

まずひとつめは、「レズビアンとして」学びたいと意気込んでいたので、自己紹介で早速カミングアウトするのですが、そのたびに「あ、そう。それで、何を研究しているの?」と会話が続く、性的マイノリティであることがまったく珍しくない環境。日本では、ほぼ必ず「え、そういう人、初めて見ました」といった反応になり、あたかも自分がレズビアンの代表であるかのように説明する時間があってから、場合によっては次の話題に移行できる、といった調子だったところからの大きな変化でした。

そしてもうひとつは、クィア理論の文献に触れることで、レズビアン・セクシュアリティはレズビアン・アイデンティティとイコールではなく、本人にもわからない、超過した部分があることを知ったことです。ちょっと難しいですが、ひとつ文献の例をあげます。哲学者ジュディス・バトラーの「模倣とジェンダー不従順(Imitation and Gender Insubordination)」(1991)は、バトラーとしては珍しく、「16歳からずっとレズビアンなのに」とレズビアン当事者としての立場からつづられています。「イエール大学でホモセクシュアリティについての会議に登壇しにいくにあたって、私は友達に、レズビアンになるために行くのだと話した」「この居心地の悪さは何だろう?」と。カミングアウトすることは、レズビアンであることを公言することだが、しかし同時に、レズビアンが何かということは、他人にも、自分自身にも・・・・・・わからないのだ、ということ。いいかえれば、レズビアンというアイデンティティをもつことは可能だが、レズビアンというセクシュアリティの中身は本人も含めて誰にも完全にはわからないのだ、ということがすっと腑に落ちました。異性愛者の人も、あるいは、アセクシャルの人も、「なぜ、この人には性的に惹かれるのか」「なぜ、誰にも性的に惹かれないのか」について、完全には説明できないですよね。私も、レズビアンであることがマイノリティであるため、そんな自分を含めてレズビアンを肯定することばかり考えがちでしたが、そもそも、レズビアンというラベルは、とある女性が、同性である女性を性愛の対象とするということしか告げていません。そういえば、ミニコミで一緒に活動していたレズビアンAさんと私は、どんな・・・性格や容貌、装いの女性に惹かれるのか、その人との関係性はどうありたいのか、そもそも、自分はどのような装いを好むのか、といった、かなりの程度言語化して説明できることがらについてさえ、ほとんど共通点がなかったことを思い出しました。そういえば、Aさん、少女漫画はまったく読んだことがないと言っていたっけ。

そう、私は、大人になってから触れたレズビアン映画や美術や、コペンハーゲンで一緒に登壇したモニーク・ウィティッグといったレズビアン理論家などの影響ももちろん受けましたが、自分の価値観の根本ということでいえば、もっとずっと早く、ずっと強烈に、BL(ボーイズラブ)の「祖先」である「美少年漫画」「少年愛もの」の影響を受けていたということに、大学院の1学期目で気づいたのです。一例をあげれば、たとえば『摩利と新吾』(木原敏江/1979-84)での、鷹塔摩利が幼馴染の印南新吾への思いが性欲や独占欲も含めた恋愛感情だと気づき、思い悩む様子や、一時的ながらも相思相愛になった描写にどれほど一喜一憂し、感情移入していたか。最終的にはこの恋は成就せず、ふたりは生涯、最高の親友同士として過ごします。とはいえ、周囲の誰よりもうつくしく才能あふれる摩利の、新吾に対する同性愛感情が否定されることのない世界観に没入した結果、私自身が同性愛者だと気づいた時、同性愛感情という意味では摩利のそれと同じなのだから、「これが悪いものであるはずがない」と思えたのです。世間で「変態性欲」や芸能人のスキャンダルとしか扱われていなくても。つまり、「世間一般」の偏見にもかかわらず、木原敏江という漫画家が創造した漫画表象に私は救われた・・・・のです。もちろん、摩利と新吾の恋愛が成就しない結末には落胆してはいました。でも、彼らの一生が描かれる大河作品であり、群像劇でもある本作には、長じて自分がレズビアンだと気づいた読者にとって、自己を育む要素として取り入れられるものがたくさんありました。アンドロジナスな摩利の美貌は、女性読者にとって、そのまま憧れ、目指せるものでもありましたし。

さて、そのように気づいた1998年後半の時点で、すでに、BL(ボーイズラブ。当時の言葉では「やおい」や「耽美」)が商業ジャンルとしてほぼ現在と同様の規模となっていたことや、コミケなど同人誌の世界も活発で、少女漫画ジャンルでも美男子同士を主人公とした物語は一定数、生産されていたことは知っていました。そして、「美少年漫画」とは違って、BLの多くがよりエロティックな描写を含むようにもなっていることも。同年に出版されていた『タナトスの子供たち 過剰適応の生態学』(中島梓)や、たまたま入手していた「やおい論争合本」を読んでも、どうやら、作り手と読み手の多くは異性愛女性のようでした。私自身はBLの祖先である「美少年漫画」を、男性同士を女性同士に変換しつつ、作中の同性愛は同性愛としてそのまま内面化して育ったわけですが、これら、美男同士の恋愛を軸にして、セックス行為も描く近年のBL愛好家たちは、日々、同性愛ものを描いたり読んだりしているのに、なぜ現実では異性愛者のままでいられるのだろう? そんな素朴な問いから、私の大学院での研究がスタートしました。

2008年に博士号を取得した英語論文のタイトルを訳すと「YAOIを読む、生きる〜男性同士のファンタジー物語が、日本の女性の性的なサブカルチャーであること」となります。これをもとに、日本語で執筆した2冊の本『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015)と『BL進化論〔対話篇〕 ボーイズラブが生まれる場所』(2017)は、まとめて「2017年度SENSE OF GENDER賞特別賞」を受賞、前者は中国語と韓国語、後者は中国語に翻訳され、ひろく読まれています。早稲田の図書館にも所蔵されているので(もちろん、紙版、電子版で販売もしていますが)ご興味のある方はぜひお読みください。

1990年代半ばの私

本書の概要を、1998年時点での私自身の疑問に答える形で記すならば、こうなります。BLは、表象としては美男同士の恋愛を軸に描く物語群だが、ベテランの愛好家にとっては、美男キャラクターたちは、彼女たちの代理人であり、彼女たち自身でもあります。だからこそ、単に現実の女性性から逃避して楽しめる定型的な作品群であることにとどまらず、「この主人公がもし実在したら、現実の日本社会でゲイの若者ということになるのだから、彼らの周囲の人たちがどのように振る舞えば、また、彼ら自身が、どのようにカミングアウトを含めて行動すれば、それなりにハッピーになれるのか」を「自分ごと」として誠実に想像して描く作品が、とくに21世紀になって増加しました。それらの作品群は、1990年代の、主人公が「俺はホモなんかじゃない!」とホモフォビア(同性愛嫌悪)的な主張をしたり、「愛ゆえのレイプ」のような無理なエピソードが使われている定型的なBL作品から、より現実に配慮のある作品へと「進化」したものです。また、現実にもっと同性愛者に優しい社会に「進化」すればいいのにと思っている市民が真似できるヒントを示してもいます。この2点から、私はこれらを「進化形BL」と呼んでいます。とくに代表的な作品として、『スメルズライクグリーンスピリット SIDE A』と同『SIDE B』(永井三郎、2012&3)と、『同級生』シリーズ(中村明日美子、2008-)をそれぞれ12ページ以上にわたって考察しました。さらに、こういった「進化」の原動力が、BL愛好家女性たち同士が、媒介している表象は美男同士の恋愛物語ですが、創作している人も、享受している人も、そのほとんどが自分たちと同じような女性愛好家であることを分かった上で、いわば、脳内でテキスト・ベースで(性)愛を交わしている、愛を交わす快楽である、とも論じています。BLは長らく、女性たちの現実逃避のための表現物でしかないとか、「BLキャラクターは自分の異性愛の相手をしてほしい美男だが、現実には無理だと分かっているから物語で擬似体験している」などといわれてきました。これらに一理がないとはいいませんが、極めて表層的な理解でしかないのです。もっとずっと多層的で複雑なのがBLの言説空間です。そのことを、「始祖」を小説『恋人たちの森』(森茉莉、1961)とし、広義のBL史をたどることと、近年の商業BLの「進化」を数多くの作例をもって論じた、初めての研究書となりました。もちろん2023年現在では、当時よりも実写ドラマや映画を含めてBLのメディア化が進んでいますし、読者や視聴者に男性も増えています。とはいえ、『BL進化論』シリーズ2冊は、広義のBLの歴史と本質を知りたい方にとっての基本の書であり続けていると自負しています。

 

私の専門分野、ここが面白い!

私は肩書きを問われた時には「クィア・ビジュアル・カルチャー・セオリスト」と名乗っています。「クィア」とは、「LGBTQA+」の「Q」の「クエスチョニング/questioning(自問自答している)」ではなくもうひとつの「クィア/queer」です。日本語にはぴったりの訳語はなく、「おかま」と訳されたりすることもありますが、もともとは「おかま」よりもはるかに侮蔑的な、男性同性愛者に向けた言葉であり、それを、1990年代以降、あえて誇りをもって、ゲイだけではなく性的マイノリティが、いわば「ポジティヴ変換」して使うようになった言葉です。「クィア理論」という言葉を使い始めたのは、オープンリー・レズビアンのフェミニスト映画理論家であるテレサ・デ・ラウレティスの1991年の論文だとされています。私の先生であったダグラス・クリンプは、レズビアン&ゲイというと、ゲイやレズビアンの当事者が当事者のために活動しているというニュアンスが強いが、そうではなく、異性愛規範とホモフォビアとその機能が問題なのだという意識にシフトしているのがクィアのひとつの特徴だということを述べています。私自身もオープンリー・レズビアンですが、肩書きとして「クィア」のほうがしっくりきます。さきほどからも述べているように、広義のBLの作り手も読み手もその大多数は異性愛女性ですが、21世紀に入って、ホモフォビアを乗り越えるヒントを示す「進化形作品」が増えている、ということは、ゲイ当事者ではないクリエーターがゲイにとって生きやすい世界を作品中で模索するようになっているのです。これら「進化形BL」の作家たちは、現実には異性愛女性が多いでしょうし、「誰それの妻」「だれそれちゃんのお母さん」と呼ばれている方も多いでしょう。現実社会で性的マイノリティではない・・人たちを「クィア」と呼ぶことには慎重にならなくてはいけませんが、彼女たちがBLの言説空間において、男性同性愛者の幸福を模索しながら、女性同士、テキスト・ベースで愛を交わしていることに着目するならば、彼女たちは「クィア」だといえます。そして、私自身も。

ところで、今年(2023)出した3冊目の本のタイトルは、『BL研究者によるジェンダー批評入門 言葉にならない「モヤモヤ」を言葉で語る「ワクワク」に変える、表象分析のレッスン』です。これは、編集者さんが考えてくださったタイトルなのですが、私の専門分野をうまく言い表しているなと思います。私は、研究者として、長い時間をかけて難解な理論書や、分析したい作品(表象)についての先行研究を読み、自分のなかの「モヤモヤ」や「ワクワク」を言語化します。教員としては、学生さんたちがそれぞれの「モヤモヤ」や「ワクワク」を言語化できるように、基礎知識をつけたり、応用分析をするお手伝いをします。そして、分析する対象は、ポピュラーカルチャーも含みますので、研究者以外の人にも自分が書いた論文を読んでもらうことができます。例として、本書では、「BL、ゲイ映画、そして現実のゲイとの関係再考 映像化の新たなフェーズの今、あらためて」として、ドラマ『おっさんずラブ』のパイロット版(2016)よりも連ドラ第一シーズン(2018)を高く評価し、しかし映画版(2018)は、新手あらての強力なホモフォビア装置になっている、と批判しました。それに対して、SNSでいくつか反応をもらいました。一例をあげます。「ずっと、物語を愛する人の熱量の上澄みをすくい取られるような状況が続き その物語と同時に 心動かされた私の感情まで「あり得ないもの」とされていたような気がしてたのだと思う ここからまた、私の『おっさんずラブ』が始まる気がしてワクワクする」私自身の「モヤモヤ」を言語化するために書いた論文が、コンテンツを楽しむ一般の方々の「モヤモヤ」を晴らすことにもつながって、「好きだったコンテンツ(ここでは連ドラ第一シーズン)は愛し続けていいんだ」と喜んでもらえる。これは、とても嬉しいことです。高校時代から、「私だけができることってあるかなあ」と考え込むたちだったと冒頭に書きましたが、そこに近づいているともいえそうです。昨年秋から、英語でBL情報を発信するYouTubeチャンネルを運営していますが、英語圏だけでなく、フランスやブラジルからもコメントをもらいます。アップデートしたBL論の本を英語でも書く。それが次の目標です。

 

プロフィール

みぞぐち・あきこ。山口県出身。雙葉高等学校卒業。上智大学外国語学部英語学科卒業。ファッションとアートの仕事、および、レズビアン・コミュニティでの活動をへて、アメリカNY州ロチェスター大学大学院ビジュアル&カルチュラル・スタディーズ・プログラムにて博士号取得。2023年4月より現職。著書『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015) 、『BL進化論〔対話篇〕 ボーイズラブが生まれる場所』(2017)(上記2冊は「2017年度SENSE OF GENDER特別賞」受賞)、『BL研究者によるジェンダー批評入門 言葉にならない「モヤモヤ」を言葉で語る「ワクワク」に変える、表象分析のレッスン』 (2023) 。英語でBL情報を発信するYouTube “BL with AKIKO”チャンネル(漫画家インタビューは日本語字幕あり):
https://www.youtube.com/channel/UCrRNpDCGNueBa8qDsy-5NcQ

『S/N』期間限定世界初配信(2021)時の「前説」(英語)および、概要(日本語)
https://visualaids.org/projects/residency-sho-akita (2つめの動画)
http://normalscreen.org/blog/snmizoguchi

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