恐らく、このWebサイトをご覧になる方の多くは受験生やその保護者の皆様でしょう。そのような視点から、以下にご挨拶を述べます。

皆さん、「モンタージュ(montage)理論」という言葉をご存知ですか?簡単に言うと「映像の順番を考慮することによって、新たな意味や効果を生み出す映像手法」のことです。例えば下の画像を右から見ましょう。顔の写真を最初に出して、その後に果物の王様といわれるドリアンの写真を見せたとしましょう。最初の写真で聴衆は「あの 顔は何をみているのだろう?」と思い、次にドリアンが出た時「ドリアンを見ていたのか?」ということになり、捻りがなくてあまり面白くありません。では左から見てみましょう。ドリアンを最初に出して、その後に顔を出すと、顔は「ドリアンは美味しい!」と言っているように見えます(私は大好きです!)。顔の配置を後にすることにより、私たちはその顔に自分なりの解釈を自然に加えるようになります。この現象はクレショフ効果と呼ばれています。

下の画像を左から見たとするとどうでしょう?画像は全てAIで作りました。小さな子供は「未来」の象徴として、よく映像に利用されます。その後にゴミで汚染された川や地球温暖化で砂漠化した農地の画像をくっつけると、それは環境汚染が進むこの子達の未来の隠喩(メタファー)となります。右から見るとどうでしょう?環境汚染された状況が明るい未来に好転する、という意味に受け取ることができ、印象が全く逆転してしまいます。

モンタージュ理論は20世紀初頭、ロシアの映像研究者クレショフとプドフキンによって確立されました。映画監督エイゼンシュタインは、この技術を総動員し1925年「戦艦ポチョムキン」を発表します。当時の映画はセリフを入れる技術がなかったため無声映画ですが、船員たちが食生活の不満を訴える冒頭の「ウジ虫」のシーンや、終盤のオデッサ港での虐殺場面における「ベビーカー」のシーンは、カメラワークや切り取りの技術と共に、今でも映画史に残る名シーンです。YouTubeで1時間ちょっとの映画として見られますので是非ご覧ください。
このように映像は、事実である画像を材料にしたとしても、発信者・作成者によって恣意的・効果的に演出・構成されることがあり得ます。ニュースを受け取る私たちにとっては映像でそれを知ることしかできないため、その意味で「事実は創られるもの」でもあります。例えばそのような意図がなくても、テロや大事故・大災害のニュース報道において悲惨なシーンや被害者を繰り返し画面に出すことだけで、私たちの感情に強く共感が生まれ、同時にそれを引き起こしたテロリストや過ちに対して憎しみを抱きます。映像を受け取る私たちには、悲壮感や敵対心を必要以上に煽られていないか?を常に冷静にチェックするメディアリテラシーが求められます。ここまでは、1年生における私の情報Iの授業内容です。
授業でこの話題を取り上げるために教材を見返していた時、ふと「私たちの思い出もモンタージュなのではないか?」と思いました。私たちが思い出を振り返るとき、楽しかったこと・嫌だったこと・恥ずかしかったこと・後悔すること・誇りに思うこと、その内容は様々でしょう。それらはビデオのように正確に記録されているわけではありません。すべてを思い出すことはできないため、印象的な要素が選び取られ、他の多くの情報は切り捨てられます。そして選ばれた断片は、思い出した時の自分の感情や価値観に沿うように配置されます。望ましい記憶はより華々しく、思い出したくない記憶は時に好意的に解釈を変え脚色されます。そこではまさに、思い出がその断片の相互関係によって新しい意味や映像効果を生み出しています。同じ記憶であっても、思い出す順序が変われば、最初に述べたように、モンタージュ理論により自分自身や聞く人が受け取る意味が変わります。失敗の後に成功したことを思い出せばそれは自身が「困難を克服した」美談になりますが、逆は残念な物語になります。しかし、人間には心理的に「失敗話よりも成功話を話したがる」、いわゆる「公表バイアス」が働くため、多くの場合は前者のように思い出を再構成してしまいます。記憶の断片的内容よりも、それらを無意識にどう組み合わせているかが、私たちの記憶の本質と言えるかもしれません。周囲の人たちはそのように作られた思い出話を聞かせられることになるため、その人の「美談」として認識することになります。このような無意識のモンタージュによって再編集された記憶は、多くの場合脚色されていますが、同時に自分に対する「自己肯定感」につながり、私たちの心の安定を生み出しているのかもしれません。
私たちはそのように「編集された過去」と共に生きています。思い出とは永久保存された正確な事実そのものではなく、心の中において現在進行形で組み替えられる映像作品と言えます。そのことに気づくとき、記憶は私たちの人生の可能性を拘束するものではなく、これからも意識的に映像の続きを作るという意味で、未来を意欲的に生きるためのエネルギーにもなり得ます。私たちの記憶にある一つ一つの思い出の断片は、それ自体もひょっとしたら小さな嘘や思い込みによって美しく薄化粧されているかもしれません。そして、それらを繋ぎ合わせた人生のモンタージュを完成させる過程に、私たちが生きることの真実があるのかもしれません。

受験生の皆さん、皆さんはどんな高校生活を夢見ていますか?本庄学院は首都圏から遠く、交通の便はお世辞にもいいとは言えません。しかし、キャンパス内を歩いていると、毎日四季の草花や鳥の鳴き声が皆さんを出迎えてくれます。それは首都圏の学校にはない経験です。その経験は、残念ながらスポーツや語学のようにすぐに使える力として現れません。皆さんの考え方や振る舞いの中にさりげなく現れる程度のものです。ひょっとしたら皆さんが将来家庭を築いてハイキングした時に子供に聞かれて、「この鳴き声はホトトギス」「この花はタチツボスミレ」と答え、「パパ、すごいね」「ママ、物知りだね」と驚かれる程度のことかもしれません。自分の部屋に季節のお花を飾ってみようと思う程度のことかもしれません。しかし、その程度のことが長い目で見ると、皆さんの人生の彩りにつながります。自然破壊や環境問題に一層関心を持つかもしれません。そのことはひょっとしたら皆さんの将来の方向を左右するかもしれません。このようなキャンパスの中で生活するこれからの 3 年間は、ゆっくりと進行する、生徒・教職員の持つ多様性が生み出す化学反応の中で、知らないうちに確かに、皆さんのみずみずしい情操・感受性を豊かにし、人間的な魅力を作ることに寄与します。そして、それらの力はきっと皆さんを世界に貢献するリーダーに成長させてくれることでしょう。
皆さんの人生は Google Map ではありません。最短経路で夢を求める人生は、望ましい人生なのでしょうか?本庄学院は、他校にはないようなユニークな授業、多様な課外プログラムを有しています。キャンパスの四季の変化の中で、様々なことにチャレンジし、試行錯誤してください。その回り道があなたの人生に深さを与え、人生を歩むために必要な力を身につけさせてくれます。
本庄学院で過ごす3年間はいつも楽しいものだとは申しません。回り道の過程で時に苦しむときもあれば悩むときもあるでしょう。楽しいだけの高校生活は、本当に楽しいのでしょうか?仲間と共に掴んだ勝利や賞は、それまでの一緒に努力した辛い思い出があればこそ、ひときわ嬉しく感じます。1年間かけて完成した卒業論文を提出するとき、苦しんだ者だけが感じられる達成感が得られます。
本庄学院での3年間の学院生活は、緑豊かなキャンパスを背景として、それだけでモンタージュの余地のない、いつまでも鮮明に皆さんの心に残る思い出となるはずです。
半田 亨
HANDA Toru
Principal, Waseda University Honjo Senior High School