Institute of Comparative Law早稲田大学 比較法研究所

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【報告】公開講演・討論会「ヨーロッパの難民とテロをめぐる言説と法――精神分析と法との対話」を開催しました。

公開講演・討論会

「ヨーロッパの難民とテロをめぐる言説と法――精神分析と法との対話」

  • 日 時 2017年5月17日(水)16:30~18:00
  • 講 師 守中 高明 早稲田大学法学学術院教授
  • 司 会 中村 民雄 早稲田大学法学学術院教授
  • 主催 EU法最新動向研究会 (比研共同研究プロジェクト)
    共催 早稲田大学比較法研究所
  • 参加者 24名(うち院生・学部生8名)

 

講演・討論会の概要

司会者による講師守中教IMG_1306授の紹介があり、続いて守中教授による著書『ジャック・デリダと精神分析――耳・秘密・灰そして主権』(岩波書店、2016年)の第4部第1章「絶対的歓待の今日そして明日――精神分析の政治-倫理学」の概要の説明があった。その核心部分の要点は、以下の通りである。

①デリダの提唱する絶対的「歓待(hospitality)」は、キリスト教の慈悲を背景とする「寛容(tolerance)」とは根本的に異なり、寛容が内包する強者の施しの視点を拒絶するものである。

②絶対的歓待は、待ち望まれない者にも開かれた歓待として観念され、カントが『永遠平和のために』(第三確定条項)でのべた「人間はもともとだれひとりとして、地上のある場所にいることについて、他人よりも多くの権利を所有しているわけではない」という立場を徹底したものである。IMG_1306n

③かかる「歓待」理解がなりたつのは、語源的に歓待する存在=《hôte》は主体と客体の両義をもつ(hospes歓待を与える者・受ける者、hostis敵)からである。そして思想的にも原初的存在そのものが存在の場に迎え入れられて存在し始めるのだから、存在は(存在の場からした客体であるところの)主体であるといえるからである。

④このような絶対的「歓待」の概念が法や政治により認められる可能性はほぼないが、その概念を敢えて用いることには意味がある。絶対的「歓待」の理念とヨーロッパ等での難民の受入れに見られる法的な迎え入れの現状とのギャップを示し、現状の法を支える主権の権力性を描くとともに、EU諸国などで進行する主権の制限(主権の脱構築)を活写し、法批判の場を作り出せるからである。

講師の説明の後IMG_1318-2、会場参加者と講師との間で活発な質疑応答が交わされた。たとえば、デリダのいう絶対的「歓待」は人間の本性(領域、所有、権力を求める)に反する想定で議論のための議論に陥っていないかという疑問が寄せられた。これに対して講師は、人間は文化的な生き物でもあり、旧約聖書のロトの例(迎え入れた客人を差し出せと言われたロトは、自分がいったん受入れた客人を差し出すことはできない、その代わり娘を差し出すと主張した)からしても、本能や本性に反する主張は無効だということにはならないと応答した。次に関連して、たとえば「歓待」は主権との関係で意味のある議論になるのだろうかという問いがあった。それに対しては「主権」は①国民・国土の統治権、②国家の最高独立性、③国家の究極の政治的決定権力という3つの意味において使われうるが、デリダが意識しているのは①であって、絶対的「歓待」が法となるIMG_1314ことは現実には不可能であろうが、「不可能なことが我々にとって可能になる=不可能事の可能性」(デリダ)、つまり①の面での各国の移民難民管理という現実と「不可能なこと」=「歓待」というありうべき像との差異を浮き彫りにする意味があるのだ、と応答された。こうした質疑応答を皮切りに予定時間を超過するほどに活発な対話がなされ、人文学的なアプローチと法学的アプローチの差異も応答の中で明瞭になり、盛会に終わった。

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