多和田葉子さんとのアカデミック・ワークショップは今年で5回目となるが、今年度は3年ぶりに対面で実施することができた。全体のテーマを「ジェンダー」と決め、大学院生3名が多和田さんの作品についての研究発表を行なった。
エレナ・ヤノリス教授と多和田葉子さん
まず早稲田大学大学院文学研究科現代文芸コース修士課程1年の磯崎美聡さんが、「『尼僧とキューピッドの弓』における噛みあわない言葉と身体」というタイトルで発表した。『尼僧とキューピッドの弓』ではドイツの修道院が舞台であるにもかかわらず、尼僧たちがカタカナの名前を持たず、語り手のつけた漢字のあだ名で描写されることで、不思議な雰囲気が醸し出されている。しかもその漢字の読み方は明白ではない。発表者はこれらの名前が物語の進行を予告するような作用を持つことを指摘し、語り手の「わたし」と、ずっと不在の尼僧院長だけが名前を持たないことに注目する。
第二部ではその尼僧院長が語り手となって、寡黙な教師による弓術のレッスンが彼女の言語の世動作にも複層的な意味がある。最後に短編「海に落とした名前」が、固有名を失った「わたし」が自分に名前や社会的背景を与えようとする他者に抵抗する物語として読み解かれ、身体と名前の乖離、両者の相互関係が考察された。
多和田さんからは、カタカナの人物は日本語の文章の中に居場所がないような気がして、あえて漢字であだ名をつけた、とのコメントがあった。こうした試みは『飛魂』や「穴あきエフの初恋祭り」でも見られるものであり、さらに『献灯使』では主人公が「無名」と名付けられている。多和田作品における名前の機能をめぐっては、今後さらに研究を発展させることも可能だろう。
2人目の上智大学大学院文学研究科ドイツ専攻博士前期1年の斎藤明仁さんは、「多和田作品における性と身体――ジェンダー・イメージの「移動」に注目して」という発表を行なった。『献灯使』の「無名」が一見男の子のように描かれていながら、作品の中で胸が膨らんだり、月経を体験したりするなど女性的身体を獲得していくことに注意を促し、近未来の鎖国された日本を描くこの作品世界では、「誰でも人生のうち必ず一度や二度は性の転換が起こるように」なっていることを指摘する。自らの意志ではなく「自然の策略」によって起こる性の転換は、それが二度起こり得ることから、必ずしも一方向的なものではない。発表者は多和田さんの初期の作品にもジェンダーの「移動/撹乱」といったイメージが散りばめられていると述べ、中間地帯に身を置く、という多和田さんのスタンスがジェンダー表現にも当てはまると考察する。越境が一度きりのものではなく、絶えざる「移動/撹乱」が作品内にあるという発見は刺激的だった。
3人目は早稲田大学大学院文学研究科現代文芸コース修士課程2年の瀬川花乃子さんが、「神と神と花と蛇の四角関係――『オルフォイスまたはイザナギ 黄泉の国からの帰還』分析」という題目で発表を行なった。対象としたのは1997年にドイツで放送されたラジオドラマで、ギリシャ神話と日本の神話が混淆され語り直された作品である。オルフォイスとイザナギを重ね合わせたオーギという男(神)とオイリュディケとイザナミの重ね合わせであるイナーケという女(神)の登場人物、さらに花や蛇などとの関係性を分析することで、男女の関係に二項対立ではないオルタナティヴな要素が生まれる可能性を指摘しつつ、「行動する男性」のもたらす悲劇に注目した。神話における蛇、多和田作品における蛇の表象分析は興味深いもので、INAKE、snake、nakedなど英語にした場合に浮かび上がる言葉遊びの発見も秀逸だった。ルネ・ジラールの「欲望の三角形」を回避するための「四角形」、という考察はさらに今後の研究につながっていくだろう。多和田さんからも「男女の二項対立を崩すには動物が必要」という発言があった。
会場の様子
最後にゲストコメンテーターのエレナ・ヤノリス教授(ベルリン自由大学)より、ドイツ語圏におけるジェンダーの多様性と呼称の問題について詳細な報告があり、単語に「性」のあるドイツ語では、どのような配慮や新しい工夫がなされているか、知ることができた。それに関しては多和田さんからも、7月のバンベルク大学での6回のレクチャー「ジェンダーの彼方で」の紹介があり、現代の複雑な言語規則の中でマイノリティに配慮しつつ思考し創作することの問題点に触れることができた。本ワークショップには聴衆として学部生や留学生、大学院生(他大学を含む)、外国人研究員の参加があり、予定時間をオーバーして活発な質疑応答が行われた。(報告者:松永美穂)
学生のコメント:
- ふだんこのテーマで発表するチャンスがないので、貴重な機会だった
- みなさんのすばらしい発表や議論が聞けて刺激になった
- 今後の研究のヒントが得られた
ワークショップ概要
日時:2022年11月1日(火)16:30~18:00
会場:早稲田大学 戸山キャンパス33号館第10会議室
司会:岩川ありさ (早稲田大学准教授)
コメンテーター :多和田葉子
ゲスト: エレナ・ヤノリス (ベルリン自由大学日本学教授)