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【SGU国際日本学拠点】国際シンポジウム「文化生産者としての<作者>」を開催-報告-

国際シンポジウム 「文化生産者としての<作者>」

 2016726日(火)14:00~18:00

早稲田大学戸山キャンパス 33号館3 1会議室

 主催:

スーパーグローバル大学創成支援事業「国際日本学拠点」

早稲田大学角田柳作記念国際日本学研究所

共催:

コロンビア大学東アジア言語文化学部

 企画・運営:

十重田裕一(早稲田大学)

李成市(早稲田大学)

ハルオ・シラネ(コロンビア大学)

鈴木登美(コロンビア大学)

講演者:

稲賀繁美(国際日本文化センター)

小野正嗣(立教大学)

児玉竜一(早稲田大学)

小峯和明(立教大学名誉教授・早稲田大学客員上級研究員)

モデレーター:

益田朋幸(早稲田大学)

尾崎名津子(早稲田大学)

陣野英則(早稲田大学)

埋忠美沙(早稲田大学)

荒木浩(国際日本文化研究センター)

鈴木俊幸(中央大学)

髙岸輝(東京大学)

仲町啓子(実践女子大学)

渡部泰明(早稲田大学)

ロラン・バルトが「作者の死」を唱えてから半世紀近くになる。今日<作者>を問題にすることは、バルトの言う「作者の死」以前に戻って近代の通念となった従来の「作者」を再生させることではない。<作者>の概念や機能をあらためて問い直すことを切り口として、文化の生産者・享受者が属するさまざまな集団・ネットワーク・メディア・社会環境の有り様を明らかにし、そうしたダイナミクスの中で文学をはじめとする文化テクストがどのように創造・再創造されてきたかの歴史と現在を再考しようとするものである。

国際シンポジウム「文学生産者としての<作者>」は、異なるジャンルやメディア、またその相互作用を具体的にとりあげ、日本における<作者>の問題を広く比較検討することによって、人文学研究の基盤を考え直し、文化の創造と享受の歴史と現在・未来についてあらたな展望を拓くことを目的に、早稲田大学において2016年7月26日に開催された。

スーパーグローバル大学創成支援事業「国際日本学拠点」および早稲田大学角田柳作記念国際日本学研究所主催、コロンビア大学東アジア言語文化学部共催のもと、学内外からの研究者、教員、学生をはじめ、100名を超える参加者が集った。

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開会の辞

十重田裕一(早稲田大学)

鈴木登美(コロンビア大学)

国際日本学拠点リーダーである十重田裕一教授による開会の辞に続き、鈴木登美コロンビア大学教授がシンポジウム開催の趣旨を述べた。鈴木氏はまず、文学作品の意味の源泉としての「作者」という概念を疑問視したロラン・バルトによる、テクストの意味は享受者の読む行為の中で生成されるものであるという思考方法の提示、そしてミシェル・フーコーによる、近代西洋における<作者>概念の構築過程の歴史性と社会的、政治的、経済的機能の解明が、その後のテクスト論や読者論の発展につながったことを解説した。鈴木氏はまた、そうした視点が提示されてから半世紀経った今、メディアやテクノロジーの進展に伴い、インターネットなどの様々なメディアにおいて、複数の生産者による新しいかたちの文化生産物がみられるようになり、作者と享受者の境界がさらに曖昧化していると指摘した。その一方で、日本や他の東アジア地域においては、歴史的に作者と享受者の合作による模倣と創造が盛んに行われてきており、20世紀に至っても文化の生産者と享受者は明白な境界線のない連続した存在として共存してきたことも論じた。鈴木氏は、そうした歴史的考察も含めた多様な研究を、今日の社会が直面する問題と結びつけ、新しい角度から、分野、時代、ジャンルを超えたかたちで再考していくことが必要であるとし、本シンポジウムでは、いろいろな分野で先駆的研究を進めている研究者の提示する具体的な事例をもとに、そうした議論が繰り広げられることが期待されると述べた。

T01_9228(鈴木先生)★

 

 

 

 

 

 

 

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稲賀繁美(国際日本文化研究センター教授)

「刻印と反復:森村泰昌における世界美術とその作者・石川九楊の『中国書史』における筆跡と歴史を考察の出発点に」

小野正嗣(立教大学教授)

「無力な作者」

モデレーター:益田朋幸(早稲田大学)、尾崎名津子(早稲田大学)

 

比較文化、比較文学、美術研究を専門とする稲賀繁美氏は、芸術家森村泰昌の作品と、石川九楊の『中国書史』における書をめぐる議論を中心に、反復、作者、享受者という概念を考察した。稲賀氏は、著名な西洋の芸術家たちの映像体験を自らの肉体を媒体にして反復する森村の作品は、死去した作者が生身の生者である森村にのりうつる、一種の憑依であり、作者と享受者の境界線を不明にするものであると論じた。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をベースにした作品などを例にあげ、オリジナルと反復の二重像のうちに意図的に作り上げられたパラレル・ユニバースでは、過去が森村の肉体に憑依しているのであり、それは人が過去を体験するのと同じものであると指摘した。

稲賀氏は、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』にも登場する「耳なし芳一」と、ゴッホと明恵上人の耳切という行為の相違点を指摘し、これはパーソナリティの危機において、耳を切ることによって狂気の世界から自らを救う行為であると論じた。自分の身体を傷つけることと、他人のパーソナリティに成り変わることは重なっていると述べる森村は、芸術作品を通してそうした行為を実践しているのだという。

稲賀氏はまた、ラフカディオ・ハーンの随筆と、西田幾多郎によるハーンの考察も紹介し、そこにみられる「あらゆる究極の微小の原子には、すでに消滅した幾億兆の宇宙の無限な不滅の経験が宿っている」、「我々の肉体は無限の過去から現世に連なるはてしなき心霊の柱のこなたの一端にすぎない、この肉体は無限なる心霊の群集の物質的標徴である」という考えと、創造と反復という行為とのつながりを指摘した。

石川九楊の『中国書史』は、書の歴史はその前史である石と影と鑿による刻印の歴史を反復しつつ、隠蔽することで成り立っていると指摘している。木簡から紙への移行という書の過渡期を代表する存在である王羲之の「真筆」で現存しているものは、複数の時代の模刻や転写による複製群の堆積の背後に不在のものとして垣間見られる幻に過ぎないが、石川九楊はそうした構造の中に歴史の認識の真理を見出そうとするという。

稲賀氏は、森村泰昌の作品と石川九楊の論ずるところに共通するのは、なくなってしまったオリジナルの痕跡の背後に歴史の始原を見通そうとする行為であると述べ、そうした観点を糸口として、<作者>とは何かを考えていくことが必要であると論じた。

作家であり、研究者である小野正嗣氏は、まずは史上最高齢者として三島由紀夫賞を受賞した蓮實重彦氏の記者会見における「不機嫌な」返答を紹介し、作者とテクストとの関係についての考察を行った。小野氏は、蓮實氏と記者たちの間のやり取りに見られる齟齬は、テクストそのものに説明原理を求める解釈と、作者の意図にテクストの説明原理を見出す解釈の対立であると指摘した。テクストの表層のみに目を向け、そこにどのような意味作用が立ち現れてくるかを明らかにする読解を実践してきた批評家である蓮實氏は、作品に痕跡を残しているかもしれない作家の人生における決定的な体験、作家の読書体験や、他の作家との交流などといった、テクストの外部の現実を参照する解釈手法を前提とした質問に対して、違和感を覚えたのであろうという。そのうえで小野氏は、アントワーヌ・コンパニョンの議論を引用し、テクストと作者は対立するものではなく、作者の意図の「首尾一貫性」は、「小さな特徴の網目、徴候を示す細部の体系、様々な繰り返しや差異や比較対象として現れる」ものであると解説した。

さらに小野氏は、芥川賞を受賞した自らの小説「九年前の祈り」の一場面が書かれた背景を紹介し、小説を書くという行為は、いくつもあるきっかけが複合的に絡み合う中、「向こうからやってくる」小説を受け止める「網目」を織り上げていく行為であると論じた。そうした網目の中には、自分では意識も記憶もしていない出来事の糸(意図)が織り込まれているかもしれず、その意味で書き手は全く無力であり、小説がやってくるのをただ待つしかないのだという。『家族生活』(Family Life) の著者のアキール・シャルマ氏との出会いと、その自伝的小説を読んだことが、当時小野氏が執筆していた、いずれ「九年前の祈り」の元になる作品に影響を与えたことは間違いないが、作者が特定の一節を書いた意図が分かったところで、作品全体の解釈が変わるようなことはなく、その意味でも作者は無力であるという。しかしながら、紹介した一節に書かれた細部は、人との出会いの記憶が刻み込まれているものであり、小説を書いた本人にとっては、本当に大切なものであると述べて、小野氏は講演を締めくくった。

稲賀氏と小野氏の講演に続き、3名のディスカッサントからコメントが述べられた。中世美術史が専門の髙岸輝氏は、明恵とゴッホの耳切の類似については以前から気付いているが、明恵の切られた耳は、生前の座禅像では明確に示されていないものの、没後に明恵が伝説化されていく中で描かれた絵巻においてははっきりと描かれている点が興味深いと指摘した。髙岸氏はまた、森村泰昌の作品と石川九楊の議論には、二次元と三次元の往還という共通点があり、そうした往還を通して、もとの作者と森村の世界がつながり、書の場合は石碑を掘った人と拓本を取った人のテクニックがつながっていくのだとした。森村の作品は、かつては似せることに重点が置かれていたようだが、最近の作品では似ている/似てないに関心がなくなったようにみえるという髙岸氏のコメントに対して、稲賀氏は、似ているかどうかは二次的なことであり、日本語の「うつす」という言葉に、移す、写す、映す、生き霊が取り憑くという意味でのうつす、などといった多様な意味があるように、その行為には多くの意味があるのだと論じた。また、真似ると、逆に離れていくものであり、これは作者の営みの大きな部分を成すものであるとした。この点については、小野氏も、模倣を重ねていくことで作者の「網の目」が狭まっていき、独自の場所に行き着くことになるのであり、その意味でいろいろと真似をしていくべきであるというコメントを加えた。

美術史研究者である仲町啓子氏は、書とは、形だけでなく、意味と時間の流れを含めた芸術であり、一回性の、東アジアの精神性とつながるものであると述べた。また、仲町氏は、東アジアの絵や書には、「倣〇〇」と記して、先駆者に倣うという手法があることを指摘した。「倣」と書かれているのに、名の示された先駆者の画法や個性の片鱗が見られず、全く似ているところのないような作品が多くあるが、それでも「倣」と記される描き方が繰り返されてきたのであり、過去の作者の何かを継承しようとする行為が続けられてきたのである。仲町氏は、森村の、似ていないけれども似ているところを狙った、幻を追いつつ、自虐的に自分を投影していくようなところは、こうした伝統につながりがあるのではないかと論じた。

和歌と中世文学を専門とする渡部泰明氏は、小野氏の「にぎやかな湾に背負われた船」にも、登場人物が戦時中に憲兵に耳を引きちぎられるという場面が出てくることを指摘し、音とは向こうからやってくるものであるため、耳がなくなることで、内なる音に耳をすますようになるということがあるのかもしれないと述べた。小野氏の「記憶の網の目」という考えに非常に啓発されたとし、過去からの様々なものが互いに結びつきあいながら、流動的でありながらも、かたちをもっていく時の面白みに、普段触れられないようなものに触れていくきっかけがあるのではないかと論じた。「無力な作者」は、向こうからやってくるものにどう耳を澄ますのか。渡部氏は、具体的・感覚的なものに触れながら、地上的なものを超えたものに触れていくことになる、偶然的な橋渡しとなるものがあるのではないだろうかという問いを投げかけた。渡部氏の「耳をすます」というコメントに対し、稲賀氏は、「からだをすます」ようにすると次に何をすれば良いか自ずと見えてくるという精神分析医の見解を紹介し、小野氏の論じる「記憶の網の目」も、そうした意思を超えた部分のネットワークであり、「からだをすまして」いくことで見えてくるものを探るというのが、作家の大切な営みなのではないかと述べた。小野氏は、読者は詩句を読む時その詩句を書いた時の作者になっているというホルヘ・ルイス・ボルヘスの論説を紹介し、書くことは、他者に開かれる、自分でコントロールできないものであり、読むことも、他者に開かれ、自分とは違うものになっていくことであると論じた。

 

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児玉竜一(早稲田大学教授)

「演劇をつくるのはだれか ―「俳優即演出家の演劇」である歌舞伎を中心に―」

小峯和明(立教大学名誉教授、早稲田大学客員上級研究員)

「日本中世の偽書と作者伝承」

モデレーター:埋忠美沙(早稲田大学)、陣野英則(早稲田大学)

ディスカッサント:荒木浩(国際日本文化研究センター)、鈴木俊幸(中央大学)

 

日本演劇研究者である児玉竜一氏は、歌舞伎を中心に、演劇における<作者>の位置付けを考察した。児玉氏は、演劇は上演と同時に消滅するものであり、資料にも限界があることから、他の領域から言及しにくく、研究が難しいジャンルであると述べたうえで、演劇・芸能の世界における<作者>とは、固有性と無名性の間で揺れる存在であると論じた。

児玉氏は、日本で固有名として劇作家の名前が出てくるのは、おそらく観阿弥か世阿弥の頃であるが、当時の一般の観客に特定の作品が「世阿弥作」であるというような認識はおそらくなかったと述べ、外向きの固有名としての名前を持つ劇作家が出てきたのは、近松門左衛門あたりからであるとした。また児玉氏は、当時は「作者近松」と標榜することは非難の対象ともなったが、そこには不特定多数を集める興行というものが成り立った近世ならではの事情が存在すると指摘した。近松の作品の多くは改作されて伝わっていき、近松没後には合作製が主流となっていった。児玉氏は、多くの場合は執筆分担の詳細の記録は残されていないとし、昭和30年後半から行われた合作の各部分を誰が執筆したのかを突き止めようとする研究は、合作の中に埋もれた無名性の中から固有性を取り戻そうとする試みであったと論じた。また、歌舞伎の台本や番付面には作者の連名がないものもあり、それは作品が何度も上演され、匿名の共有財産となり、作者名が消えたことを示しているのであり、そこには共有財産になった作品が、活用され、変容していったことが表れているとした。児玉氏はまた、歌舞伎では「型」が選択されてからそれに合わせて台本が選ばれるようになるが、「型」や台本の選択権は「俳優即演出家」にあり、作者の存在はすでに消し飛んでいるのだと論じた。つまり、歌舞伎や浄瑠璃の作品伝承の中では、「作者の死」が唱えられる以前から、<作者>はすでに死んでいたといえる。児玉氏は、多くの作者が無名性の中に埋もれる中、固有性の強い作者は、無名性をひきつける、あるいは無名性の中から引き上げられるものであると論じた。さらに児玉氏は、上演される作品の生殺与奪権を握るのは観客であり、演劇作品の中には観客の参加を見越して作製されるものもあると指摘した。

小峯和明氏は、2000 年代から再評価されるようなった「偽書」という問題をとりあげ、なぜ作者が偽装され、それがいかなる意味を持ったのかなどといった課題の分析を通した、新たな作者論の研究方法を考察した。近年日本では、近代の実証主義に基づく「真」と「偽」の二元論を超えたところで、「偽書」の創造するものの意味が問われるようになってきたという。小峯氏は、「偽書」が生み出される土壌は、カノンの在りようとつながりがあると指摘した。また、現代では「つくる」という言葉にはクリエイティブであるというポジティブな意味合いがあるのに対し、前近代においては「つくる」という言葉には技巧にはしるなどといった、ネガティブな意味合いがあったと述べ、中世における「未来記」(予言)という概念の紹介などを通して、中世には単純に「真」と「偽」という概念では割り切れない世界があったと論じた。

小峯氏はまた、「うつる」という概念の重要性にも言及し、他のものを借りて表現するという意味での「擬書」として、そして「戯書」としての「偽書」という存在を考察し、「擬作者」(仮託の作者)という概念を分析する必要性を指摘した。また、「偽書」には、1)固有の作者に仮託、装う、振る舞うことを通して書かれるもの、2)固有のテクストに依拠し、欠けているものを補うもの、3)典拠の仮構(それまでに全くないものを作り出し、それを正当化するもの)があるとし、「偽書」の位相を考察する必要があると論じた。また、中国や韓国では状況がかなり異なり、「偽書」は徹底したカノン意識にのっとって議論されているとし、今後の比較研究の必要性も指摘した。

小峯氏は、『源氏物語』や『平家物語』などといった古典作品の作者に関する伝説・伝承も考察し、作者伝承とカノン成立は対応しており、偽書の問題ともつながりがあると論じた。また、実在としての釈迦を超越する仏という思想においては釈迦の実在性

は問題ではないという、「大乗非仏説論」に対抗する三身即一身・一身即三身という概念にも言及し、これは「真の作者とは、作品からの帰納によって実態を現すものであるという文学論に通じる」ものであるとした今成元昭の主張を参照しつつ、三身即一身・一身即三身が「作者の死」という理論を先取りした考えであるともいえると指摘した。最後に小峯氏は、個への固執、共同性の喪失や、パロディを許さない傾向がみとめられる近現代の「オリジナル幻想」は、現在に至るまでみられる「引き継いで生み出す力」と相反するものであると指摘して発表を終えた。

江戸文学が専門の鈴木俊幸氏は、近世の「略縁起」は、「作為を見せない」という作為の働いた、作者が名乗られない、虚説と現実の曖昧さが許容されるものであり、中世とつながるところがあると述べ、中世から近世まで連続しているものはあるのか、そして「偽書」に関しては中世と近世で位相の相違があるか、という問いを投げかけた。また鈴木氏は、児玉氏の演劇に関する発表から、ジャンルによって状況が大きく違うことがわかり、金銭的要因と作者の問題は強いつながりあると感じたと述べた。

コメントに対し、小峯氏は、中世と近世では確かにつながる部分と切れている部分があると述べた。例の一つに「未来記」をあげ、近世になり合理主義・客観主義が強くなることで、「未来記」の欺瞞性が暴かれ、糾弾されるようになった一方で、出版文化にのって、「預言書」の解読がゲーム化し、気楽な面白い「歴史もの」の読み物として読まれるようにもなったと指摘した。また、中世において秘儀・秘法・修法などは本説を捏造することでつくりあげられたものだが、明らかに偽書である弘法大師の遺言が真言宗において重要な言説となっていったように、近世へのつながりも認められると述べた。児玉氏は、演劇研究においては数十年前にすでに無名の作者の作品こそ集成されなくてはならないと指摘されていたと述べ、その一方で、ブロマイドやチラシなどといった作者がわからないジャンルのものは研究の対象とされてきていないとも指摘した。また児玉氏は、庶民に支えられた想像力の上での歴史という観点からみた「偽宝物」の重要性も論じた。

 

ディスカッション

T01_9364(全景入口ななめ_尾崎先生)

2部構成の講演とコメントに続いて行われた全体ディスカッッションでは、講演者、モデレーター、ディスカッサント、企画者、および聴衆から、様々な意見が出された。

モデレーターの尾崎名津子氏は、近代的作者概念の呪縛が解かれてからも「作者が死にきれない」のは、出版やマーケンティング上の便利性や合理性ともつながりがあるのではないかと指摘した。小野氏は、作者とはバルトの言うように説明原理としてわかりやすいために欲されるのであろうとし、また小峯氏の偽書の考察について、人はなぜ偽物を作りたいと思うのかという問いは興味深いと述べた。これに対し小峯氏は、「偽書」には当時は本物を作るという心持ちで書かれ、本物としての意味を持っていたものと、初めから書く者も偽書として書いていたものがあるとし、本物と偽物のあり方を個々に見極め、総合的に考察していく必要があると指摘した。児玉氏も、偽系図のようにそれを必要とする者にとっては「偽」でなく「真」であったものがあり、「偽」が「偽」として楽しまれるようになったのは近世頃からで、大多数の享受者にとって、現在「偽書」とみなされているものは、かつては「真」とみなされていただろうと述べた。荒木氏は、注釈からうまれる「正」と「偽」の論理もあると論じた。

小野氏はまた、「作者の死」が発表された頃のソルボンヌでは、作家を中心とした文学史の研究が主流で、テーマに焦点をあてた研究は禁止されているような状況であったとし、そうした中でバルトやフーコーの世代の論文が登場したのだという時代背景も指摘した。テクストだけに焦点をあてた教授法や文学研究法は、大学の大衆化ともつながりがあり、時代に要請されるものと一致していたのだという。また小野氏は、日本の場合は、<作者>は「だいぶ前に死んでいた」が故に、現在も幽霊のように漂っているのかもしれないと述べた。鈴木俊幸氏は、江戸時代においては散文の「作家」であることは恥ずかしいことであり、職として認められていなかったと指摘し、<作者>を見ることで、時代や作品の社会的位置の興味深い面が見えてくるのであり、時代ごとの作者像というものが浮かび上がってくると述べた。

参加者からは、権力・為政者が「偽書」と決めたものがあるが、その点については今回のシンポジウムでは語られていないというコメントがあった。また、他の参加者からは、今後の作者のあり方を問う声や、作者主義的言説がなぜ存在し、どのような影響を持つのかという側面の研究を期待する声もあがった。

企画者の鈴木登美氏は、本シンポジウムの趣旨は、「作者の死」という言説の是非を議論することにあるのではなく、作者の機能やあり方の、時代やジャンルによる重なりと違いを詳しく分析していくことにあると指摘した。「作者の死」が唱えられてから半世紀経つ現在も、文化生産者は確実に存在しており、共同生産が盛んに行われるなかで、固有性と無名性の流動がある一方、近世以降、現代に至っても、版権や検閲(所有権、法的責任、その根拠となる権威・権力)の問題は続いている。鈴木氏は、編集者、流通・販売業者、批評家なども<作者>をめぐる問題の一部として考え、その歴史性をみていくことから、近世と近代の連続性や差異、ジャンル間・共同体間のつながりや違いも見えてくるのであり、<作者>を問題とすることは、制作者・享受者の相互関係や様々なメディアをみていくことになると述べた。また鈴木氏は、知的財産権がグローバル化するなか、個人の所有権や責任の主体といった問題は現在も切実であり、メディアやテクノロジーの変化に伴い文化の生産と享受のあり方も変容していくなかで、歴史的、地域・文化的つながりと違いを考えながら、多様な文化の生産と享受のあり方を、本日のシンポジウムのような場を通して、様々な領域の具体例を共有しながら考察していくことが重要であると指摘した。

 

閉会の辞

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シンポジウムのまとめとして、コロンビア大学教授ハルオ・シラネ氏は、英語圏の作者論の一部を紹介し、そうした議論と日本の例とのつながりを論じた。英語圏で作者論が語られる際に必ず引用されるのは、13世紀イタリアの神父・哲学者の、聖ボナベントゥラである。ボナベントゥラは、作者 (writer) には4種あるとした。他者が書いたものを写す者 (scribe [scriptor])、他者が書いたものを集めて編集する者 (compiler [compilator])、他者が書いたものに注釈を加える者 (commentator)、他者が書いたものに加えて、自分の考えも書く者 (author [auctor]) である。シラネ氏は、写すという行為については、実際には単に写すのではなく、書き直す場合が多かったとし、中世の日本で多くの異本が作られたのと似ていると指摘した。また編集するという行為については、当時のヨーロッパではパトロンに頼まれてテクストがまとめられたのであり、パトロンなしでは作者はなかったといえると付け加えた。そうした関係は、『古今集』などの背景ともつながりがみとめられる。シラネ氏は、近代では「自分の考えを書く」ことが「作者」(author) の第一条件と考えられるようになったが、テクストとは神があってこそ存在しうるものであるとされていた中世ヨーロッパにおいては、「作者」(auctor) は「たまに」自分の考えを書く者であり、媒介者として位置付けられていたのだと論じた。さらにシラネ氏は、当時の<作者>のもう一つの重要な役割は、ラテン語から地域語への翻訳であったとし、それは中世日本とも共通するところがあると指摘した。つまり、<作者>を考える際には、ジャンルと、該当する時代の共同体のあり方を考慮していくことが必要なのである。シラネ氏は、森村の作品などに見られる要素は近世の「見立て」や和歌における本歌取りなどと共通点があり、日本における「借りて自分のものにする」という発想は、古くからあるものであると指摘した。平安時代後期からの<作者>と「家」/流派のつながりや師弟関係は、日本の文化生産において重要であり、和歌集や説話集にみられるような、集めて編集するという行為も、東アジアにおける比較の視点から研究していくことが必要である。シラネ氏は、歌合わせ、連歌、俳諧などにみられるような昔からある集団創作の面白さをみていくべきであり、そうした共有し、付け加え、変えていき、また共有するという行為は、現代のインターネットやブログなどにもつながりがあると論じた。

T01_9403(李先生①)

早稲田大学角田柳作記念国際日本学研究所の所長である李成市教授は、全体ディスカッションでの鈴木登美氏のコメントに対し、今回のシンポジウムで取り上げられたトピックを考える際には、実体論から関係論への認識論的転換があり、関係主義からテクストをみていく必要があるということではないかと述べた。また、李氏は、「偽書」に関わる事例として、韓国の「花郎世紀」をとりあげた。この作品は9世紀に書かれたテクストであるとして、1989年に忽然と世に現れたものであるが、韓国の歴史学会では「偽作」という判定を受け、その後は議論してはならないものとされてしまったという。李氏は、これは「まがいものが本物を圧倒する」という典型的な例で、既存のカノンに基づく現代韓国人の古代史認識を圧倒したがために、徹底的に批判されたのだと考えられるとし、そのようなテクストを「偽作」として無視するのは問題であり、小峯氏のあげた方法論などを用いて、もっと慎重に議論する必要があると論じた。李氏は、今回のシンポジウムは様々なインスピレーションを与えるものとなったとし、今後の更なる研究への期待を述べ、閉会の辞をまとめた。

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