現職:早稲田大学大学院日本語教育研究科博士後期課程学生
日本学術振興会特別研究員
日研生活も今年で5年目になります。その間、先生方に御指導いただき、所属院生達と切磋琢磨しながら、日本語教育学に関わる理論や概念にみっちり触れ、実践活動に取り組んできました。日々の対話や協働を通し、まさに「日本語教育研究」のまっただ中に飛び込んだような思いを抱きながら、今日まで過ごしてきました。
【新鮮な体験】
日研生になりたての頃、「そもそも教科書は必要なのか」といった議論と出会い、面食らってしまった記憶があります。「教科書」という存在自体が画一性を孕んでおり、その画一性こそが教育のあるべき姿に弊害を及ぼしてしまうのではないかといったものだったと記憶していますが、教科書の存在意義や価値は無条件に担保されているものであると漠然と認識していた当時の私にとって、非常に新鮮で衝撃的な体験でした。
【“問い直し”の姿勢】
その後も、自明と思われている、あるいは前提とされている日本語教育の語り方そのものを問い直す議論が、各研究室の枠組みや分野を超えた横断的な形で展開される場に居合わせてきました。その度に、日本語教育に携わる者として常に考え続けなければならない課題を与えられたように思いました。
【学びて思わざれば則ち罔し】
在学期間中に、教材作成や中国における日本語教育に携わる機会に恵まれましたが、私自身、「日本語教育研究」が自らの実践活動の単なる裏付けに陥ってしまう危険性を感じることが間間あり、その度に日研で学んだことに立ち返って考えてきました。学問というものが、仮説の設定と検証の不断の往還から真理を追究するものであるとすれば、日研で学んだ“問い直し”の姿勢は、その本質を担うものであると感じます。
私にとって日研とは、そこで培われた姿勢――普段当たり前のように感じ、無意識のうちに前提としてきた諸概念や諸理論を問い直す姿勢――という形で、心身に内在化されたものであると言えるのかもしれません。