現職:聖学院大学人文学部日本文化学科 助教
大学院は想像とは全く違うものでした。1期生だったからかもしれませんが、同期生の多くが既に日本語教師として多種多様な現場を持っており、中には、大学院の先生方と同じ、またはそれ以上の日本語教師歴を持っている「学生」もいました。そのため、私には、授業の熱気に圧倒されずにはいられない日々が続きました。
授業では「それは理想論に過ぎません。現場ではそのようなことは不可能です」という声が上がることもありました。当時は、意見が激しくぶつかり合い、時に最後まで結論が出ないディスカッションに「なぜ皆こんなに熱いんだろう」と思うこともありました。けれど、今なら、現職日本語教師は現場において感じざるを得ないジレンマをなんとかしたいという切なる願いを持っていること、そして様々な経歴、背景を持った人たちが自由に意見を交換し合える場がなかなかないことが、ディスカッションを熱くしていたのだと分かります。
私はこれまで、国内外の教育機関8校で約10年日本語教師をしてきました。そして、ようやく、手に入るリソースも、「なぜ日本語を学ぶのか」という目的も、授業期間後に出さなければならない評価も、現場によって大きく異なり、そして私たちはそれに対応しながらも、なんとか現場を理想に近づける努力をしなければならないことを自分のこととして理解できるようになりました。現場で揉まれ、なぜ、日研が「理論と実践の統合」を謳い文句にするのか、なぜ同期生があんなに熱かったのかが分かるようになったような気がします。
ある授業で先生から「教師は長く続けていると自分を神だと勘違いするんだよ。だから気をつけなさい」という言葉があり、多くの学生が神妙に頷いていたのを覚えています。私はこれからも一人の人間として日本語教育に携わっていきたい、そして日研には自由に意見を交換し合える場であってほしいと願っています。