もう15年以上も前になるが,人文演習の時間のことである。A君が発表することになっていた。彼は立ちあがって,何も見ないで,いきなり北村透谷の「隻蝶のわかれ」という詩を,静かに暗誦しはじめた。
ひとつの枝に隻つの蝶,
羽を収めてやすらへり。
ここからはじまるこの詩は,破滅型の,またそれだけに時代の先駆者でもあった明治20年代の透谷の名高い詩である。だが,それを社会科学部の学生であるA君が暗誦しているとは!わたしは息を呑んだ。教室の学生諸君は, しばらくあっけにとられていた。A君は,しかし,ゆっくりと暗誦を続ける。