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那須政玄学部長式辞、2000年

d社会科学部は一昨年、すなわち1998年、一つの大きな節目を迎えました。

まず一つには、14号館、これが早稲田大学のなかで最新の設備を備えた校舎でありますが、そこへ社会科学部は1998年9月に全部の機能を移しました。すなわち研究室、事務所そしてほとんどの社学の授業をです。

またその年の10月に社会科学部は昼夜開講制となり、今までの夜間学部を脱しました。これも大きな節目です。昼間の学部ですと1限から5限までを授業時間帯にしているわけですけれども、それを社会科学部は昼夜開講制というかたちで3限から7限まで、昼間学部と同じ時間を使って授業ができるようになりました。

このように社会科学部はいろいろ大きな節目を迎えましたけれども、学部創設以来の理念をしっかりと堅持しております。その理念をご紹介しながらお話をしていこうと思います。

まず一つ目は、社会科学部は開かれた学部でありたいという理念を持っております。すなわち大学はユニバーシティといわれ、ユルバーサルであることが非常に大事なことであります。中学や高校までですとやはりその地域だけの限定された仲間たちと集っているわけですが、大学は日本あるいは世界の津々浦々から人々が集まってきて、それも年齢層が違う人々が集まってきて、そのなかで文化の背景が違った人々と一緒になって学んでいく、ここに大きな意義があるのです。社会科学部は今から12年前1988年に社会人学士入学というのを始めました。これは一回社会へ出てもう一度大学で勉強をしたいという人を3年生から入れるというかたちをとっております。またその次の年、1989年には全国自己推薦制度という入試制度を導入しました。近年首都圏の学生が非常に多くなり、全学生の70%を占めるようになってきました。そこでなるべくならば全国からいろいろな個性を持った学生を集めようではないかということから「全国自己推薦入試制度」をとったわけです。それによりいろいろ種々雑多と言いますか老若男女、いろいろな学生が集まってきて、人生観をたたかわせたり、一つのゼミで一緒に活動したりと、非常にユニバーサルになり、大学(ユニバーシティ)本来のあり方が実現しつつあります。またこの頃では除々にですが留学生も増えてきて、世界からいろいろな人々が集まってきて、人種も違う、そういうなかで学問をしていこうということが始まってきています。

もう一つの理念といいますのは、社会科学の総合化、学際化ということです。社会科学部は、名前からすれば、政治学、経済学、商学あるいは法学を学ぶ学部であると考えることでしょう。確かにそういう学問の一つを究めるという側面もありますが、社会科学部の本質は、社会とは何なのか、あるいは人間とは何なのかということを究めることを主眼とし、そのための手段として政治学、経済学等の社会科学諸学科の研究があると考えております。ですから社会科学部において、確かに一つのスペシャルなものを持つことは大事なことですが、それと同時に広くいろいろな事柄を知ろうとし、そのなかで自らを形成していっていただきたいということです。

“社会科学部の本質は、社会とは何なのか、あるいは人間とは何なのかということを究めることを主眼とし、そのための手段として政治学、経済学等の社会科学諸学科の研究があると考えております。”

学際性というのは、今では一つの学を究めるだけでは十分ではなく、複数の学を学びそれらを総合しつつ事柄を考究していくことです。私は経済学をやっているから経済のことさえ知っていればいいんだという状況ではなくなってきているのです。臓器移植の例を考えてみましょう。臓器移植の前提として、いわゆる脳死問題があります。昔でしたら死の三兆候といって、心臓が止まった、肺呼吸が止まった、瞳孔が拡大したまま閉じなくなったことをもって死と考えていました。ところが今日ではこのようなことをもって死を判断するのではなくて、脳が死んだことをもって死と考えようとしております。たとえ器械を使ってであるにせよ、まだ心臓は動いているし、呼吸もしているけれども脳が機能しなくなったことをもって死亡と判断するのです。脳死が認められ、臓器移植も可能になってきている現在、それでもなおわれわれは本当に脳死を死と考えてよいのかを、繰り返し考えなければなりません。そのときにもちろん問題になるのは医療の問題というのがあります。と同時にわれわれ日本人が持っている死に対する考えといった民俗学を考慮しなければならないし、さらには、倫理学や経済学的側面も考えなければならない。すなわち臓器移植、あるいは脳死という社会問題一つをとってみてもいろいろな学問分野から考えなければならないのです。ですから社会科学部の二番目の理念としての社会科学の総合化、学際化ということは、時代の要請としても当然のことでもあります。脳死問題だけではなく、環境問題、福祉の問題等、今日の社会問題にはいろいろな学問からの総合的・学際的判断が必要とされています。もちろん社会科学部はこの理念の実現のために、教員どうしが集まって、各自の専門を出し合いながら一つの問題を考えていくという場合もありますし、また教員各人ののなかでもいろいろな総合を行っております。つまり専門は経済学であっても政治学にも、はたまた自然科学にも興味を抱きながら総合的に自分のなかで研究をすすめるという態度を教員皆が持っております。

三番目の理念は、この頃新しく出てきたもので、まだ理念としては定着してはいないのですが、「問題解決のできる学生の育成」という理念です。われわれが普通に考えていたら、つまり今までの価値観でいったら、これは良いことだこれは悪いことだと当たり前のこととして考えてしまいますが、当然であるあるいは当たり前であると思っている事柄をもう一回考え直して見ようとすることも、大学の大きな使命の一つです。物事の本質を究めようとすると、今まで当たり前と思っていたことが全部疑問となって現れてくる。そういうなかから自分なりの問題を探し出して、それを自分なりに、もちろん先生に相談したり示唆を仰いだり、本を読んだりすることもあるでしょうが、解決の途を見いだしていこうとする積極的な学生を育成こと、これが第三の新しい理念です。

先ほど述べましたように、社会科学部は確かに一昨年大きな節目を迎えましたけれども、学部設以来の理念と新しい理念とは、社会科学部の中で綿々と受け継がれていくものと思います。

“ですから大学がレジャーランドだと言うのは、本質を突いているのです。学ぶということ、あるいは研究をするということは徹底的に暇が必要なのだということが、ギリシア時代からずっと言われていることなのです。”

そもそも大学とは何か、特に四年制大学とは何かという問いは、昔からいろいろに考えられてきました。古くは、象牙の塔であるとか学問の府であるとか言われましたし、新しくは大学はレジャーランドだとか、あるいは大学生活というのはモラトリアムの時期なんだという言い方もされました。モラトリアムというのはもともとは経済用語でして、支払い猶予という意味です。つまりわれわれはどっちにしろ社会に出ていって仕事をしなければならない、ある意味ではそういう刑罰が下るわけですが、その刑が執行される前の期間というものがモラトリアムであり、それが大学生活なんだという言い方がされてきました。

象牙の塔とか学問の府とかレジャーランドとかモラトリアムというのは大学を一種椰楡するような言葉なのですが、この中には言いえて妙といったような、ある種の本質を掴んでもおります。英語のスクールという言葉の語源はギリシア語でスコレーと言います。スコレーというのはギリシア語ではもともと暇という意味なのです。ですから大学がレジャーランドだと言うのは、本質を突いているのです。学ぶということ、あるいは研究をするということは徹底的に暇が必要なのだということが、ギリシア時代からずっと言われていることなのです。普通に考えると、レジャーランドとかモラトリアムは大学に対する非難の言葉なのですが、その非難は、大学が何の役に立っているのかという視点からなされております。役に立つ、それもすぐに役に立つという視点に立つならば、専門学校に行ってコンピュータを真剣に学んで即仕事に役立てるとか、あるいは司法試験の勉強だけをしたほうが無駄がなく、きわめて有効なわけです。ところが四年制の大学というのは、確かに司法試験への道も用意されてはいますが、そもそも法とは何なのか、人間とは何なのかということをより根源的に考えていこうじゃないかと、回り道をするのです。それは社会的に見るならば、当面はまったく役に立たない部分があるかも知れないし、ずっと役に立たないかもしれない。けれどもそれが人間の教養とか人格の陶冶にとって非常に大事なことでもあるのです。

“役立つというかたちで考えていったら大学の存在理由はそもそもないのです。”

いくつか事例を挙げてみましょう。犯人検挙のために指名手配のポスターを三万枚刷ったとします。しかし本当に役立ったのは一枚か二枚です。残りの二万九千九百何枚というのは無駄になっているわけです。するとポスターはたった一枚でいいじゃないかということになりますが、無駄になったその二万九千何枚というのがあって初めてポスターは有効であったのです。実際に役立ったのは確かに一枚か二枚かも知れない。残りの二万九千何枚の無駄は、大学でやっている研究のようなものです。もともとわれわれ人間が生きているというのは、ほとんど無駄なのです。役立つなどという非常に狭いところ生きているのではない。われわれが恋愛をする、ある人を好きになるというのもこれは人類の繁栄のために好きになっているわけではなくて、ただ好きだから好きだというだけな話なわけです。大学は役立つというところから離れた大いなる無駄の中にいるという顔を持っています。だから、高名な経済学者が必ずしもお金持ちになることはないどころか、むしろお金持ちにならないのが普通であります。また宗教学者、哲学者が聖人になることはほとんどないし、倫理学者がたまには不倫をすることもある、といったように大学での研究は現実的でないし、役立たないものが多々あります。しかしわれわれは無駄というなかでより根源的に考えていこうとしているわけです。人間を考え、社会を考え、はたまた自然をより根源的に考えようとする限り、即有効性ということはほとんどないわけです。そういうなかに大学はあるのです。ですからアカデミックな時間というのは、ある意味では非常に現実の時間とは違っているわけです。タイムイズマネー、時は金なりと言って、自分は24時間自由であるなかで8時間を労働というかたちで切り売りして、その分のお金をもらっているという拘束された時間がありますが、大学時代の4年間は極めて自由な時間を過ごせのです。ですから暇つぶしという言葉がありますけれども、大学においては潰すべき暇なんかなくて、まさに真剣に暇を生きなければならないのです。それが大学生活なのです。もちろん大学はカルト集団と違うわけですから一種の社会的な存在理由も持っているわけで、校歌にも「現世を忘れぬ久遠の理想」とありますように、現世を忘れてはいけないのですが現世べったりでもいけないのです。役立つというかたちで考えていったら大学の存在理由はそもそもないのです。

社会科学部の理念というのはまさにそのことを実現していこうとしているのであり、世間とはちょっと違った異空間をつくりながらそのなかでやっていこうというわけです。大学生になるということは、このような異空間に入っていくことなのです。

今年は西暦2000年というミレニアムの年です。来年は21世紀。私の若い頃に東京オリンピックというのがありまして、その頃に叫ばれたのは3C(クーラー・カー・カラーテレビ)が三種の神器ということでした。3Cの三種の神器があれば幸せになれるんだと一種錯覚をした時代がありました。三種の神器は今では簡単にクリアされてしまって、物はどこに行っても溢れています。そういうなかでわれわれは幸せになってはいない。だいぶ前から心の時代だとか精神の時代と言われていますけれども、そもそも心とは何なのか、精神とは何なのかとよくわかってはいない。われわれは大学のアカデミックな時間のなかで、本当の意味での幸せとは何なのかということをじっくりと考えていかなければなりません。そうすることでわれわれの生活パターンを変革するような新しいアイディアが生まれてくるかも知れない、そういう場にわれわれはいるのです。

大学生になったからにはこの貴重な時間、四年間になりますか、それ以上になりますかわかりませんけれども、真剣に暇を暇としてエンジョイしてもらいたいと思います。

2000年4月2日 那須政玄

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