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森武雄「〔日記〕学徒出陣 1943年10月」

早稲田大学歴史館には学生生活に関する多くの資料が所蔵されています。この記事で紹介する資料「〔日記〕学徒出陣 1943年10月」は、2005年に早稲田大学大学史資料センターが開催した企画展「戦後六〇年展① 一九四三年晩秋 最後の早慶戦」で借用・展示されたのち、森武雄氏およびご家族のご厚意により同年5月21日に大学史資料センターへ寄贈されました。

その後本資料は大学史資料センター編「〔資料紹介〕森武雄「学徒出陣」」『早稲田大学史記要』第38巻(2007年3月発行)にてモノクロ写真版つきで紹介され、『早稲田大学百五十年史』第一巻においても「森武雄日記「学徒出陣」」という名称で引用もされています。また展示およびその後の調査をもとに、早稲田大学大学史資料センター・慶應義塾大学福澤研究センター共編『1943年晩秋 最後の早慶戦』(教育評論社、2008年)が刊行されました。

資料群名・資料番号・資料名は以下の通りです:

2011年度森美代子氏寄贈森武雄野球部関係資料 2-6 「〔日記〕学徒出陣 1943年10月」

本資料群は目録未公開です。

本Web記事のテキストおよび画像の引用にあたっては以下の情報を出典として付記してください。


  • 著者名:早稲田大学歴史館
  • タイトル:森武雄「〔日記〕学徒出陣 1943年10月」
  • 掲載サイト:早稲田大学歴史館
  • 公開日:2026年9月30日
  • URL:https://www.waseda.jp/culture/archives/other/2026/09/30/7722/

森武雄の略歴

森武雄は岐阜商業学校(現・岐阜県立岐阜商業高等学校)の野球部に所属し、1936(昭和11)年夏の全国中等学校優勝野球大会で同校が初優勝した際、2年生でベンチ入りしていました。早稲田大学商学部へ進学し、野球部では二塁手として活躍しました。1942(昭和17)年の東京六大学リーグ優勝に貢献、また1943年10月16日の「最後の早慶戦」には一番・二塁手として出場しました。

学徒出陣によって満州へ出征後、関東軍の主計、すなわち経理関係の将校となりました。終戦後はシベリアで約2年間の抑留生活を送りました(名城大学「名城大学物語 第3部 第3回 神宮球場へ」)。

帰国後は川島紡績(現・カワボウ)の野球部で選手・監督として活動しました。1953(昭和28)年には名城大学野球部の監督を務め、同大学を初の全日本大学野球選手権大会出場に導きました(同前)。

その後は母校の岐阜県立岐阜商業高等学校でも監督を務め、1957(昭和32)年には同校を春夏連続で甲子園に導き、夏の大会ではベスト8に進出しました。

2011(平成23)年1月30日、90歳で逝去されました。

資料の特徴および関連する出来事

記要記事「〔資料紹介〕森武雄「学徒出陣」」を要約し、資料の特徴および関連する出来事についてご紹介します。

「〔日記〕学徒出陣 1943年10月」は、1943年10月1日から28日まで、入営を目前にした時期に書かれた記録です。10月1日記事の冒頭は:

来るものが来たといふ感じ。かねて覚悟し

てゐた秋ときが来たのであつて、あへて驚きはし

ない。でもいざ決ってみると口ではえらそうな

事を云つてゐても、あれやこれやと、征く日

迄にやつておきたい事で一杯で何となく落着

けないものだ。(以下略)

家族や友人との別れ、戦地での死を意識する青年の心情が記されると同時に、「最後の早慶戦」開催をめぐる動きも同時代的に記録されています。日記には、早大野球部長の外岡茂十郎、顧問の飛田穂洲、マネージャーの相田暢一(法学部)らが登場し、大学当局の姿勢に対する森氏の不満も記しています。

十月十四日

又々早慶戦のことで話が揉めてゐる

総長もそうだが部長は何をしてゐるか。錬成

部は尚更話しが分らぬ。時局便乗と云はんか

迎合か、事なかれ主義と云はうか。全くお話

しにならぬ。彼等の猛省を促したい。少しは

慶應をみならつたらどうだ!(以下略)

1943年9月、文科系学生の徴兵猶予が停止され、対象学生は臨時徴兵検査を経て、陸軍は12月1日、海軍は12月10日に入営することになりました。10月15日には戸塚道場つまりかつての安部球場で、また10月21日には神宮外苑競技場で文部省主催の「出陣学徒壮行会」が行われましたが、すべての学生が参加したわけではなく、参加を避けた早大生も多かったことが指摘されています。日記にも壮行会参加の記録はありません(本学の壮行会は10月18日条に言及あり)。

早稲田大学写真データベース (原版写真)B112-23「学徒出陣壮行会2(戸塚道場。学生式辞。校舎側より学生整列を望む)」。1943(昭和18)年10月15日

「最後の早慶戦」は、学徒出陣を前にした慶應野球部員の「戦地に赴く前に早稲田ともう一戦」という希望から企画されました。慶應側では小泉信三塾長が開催を認めましたが、早稲田では田中穂積総長が開催を拒み、最終的には飛田穂洲ら野球部側の責任で実施されました。10月16日の試合は早稲田が10対1で勝利しましたが、森氏の回想や慶應側の記録では、勝敗そのものよりも、入営を目前にした選手たちにとっての最後の試合であったことが強く意識されています。

十月十七日 曇小雨。

小雨が降つて居たが出陣学徒対残留部隊、

出陣学徒対稲門の送別試合を行ふ。

残留部隊には2対1にて負ける。対稲門部戦には

大勝す。

今日で俺の野球生活も本当に終つてしまつた

もう二度と再び戸塚のグランドで球を手にする

ことはないかも知れない。十何年もの長い間

小学校時代から大学に至る迄苦楽を共にし

て来た野球も愈々今日限り。一寸淋しい。(以下略)

 

2011年度森美代子氏寄贈森武雄野球部関係資料 2-6 「〔日記〕学徒出陣 1943年10月」












































早稲田大学歴史館は、歴史資料を収集・整理・保存・公開するアーカイブズであると同時に、教育研究・学生・卒業生の活動に関する展示を行う博物館として、建学以来の個性と越境性を広く世界に発信しています。

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